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【中央区】佃島渡船跡

隅田川沿いを釣り歩いているときに偶然見つけた佃島渡船跡

渡し船なんて江戸時代の話かと思っていましたが意外や意外。

案内板によると昭和39年 1964年の佃大橋完成まで現役だったとのこと。 東京オリンピックまで渡し船があったようです。東京オリンピックが消し去った過去遺産ともいえるかもしれません。

佃島渡しは1645年から1964年までの300年間。

こちらは往時の標識。佃島渡船と書かれています。

隅田川に出てみるとこんな感じです。

今日はここから東京時層地図を開いてみます。

奥が霊岸島で橋は中央大橋です。

現代の地図 2023年

釣りをしていなければここに来ることは無かったですから、去年夏にいきなり釣りに目覚めたのは、東京時層地図を楽しむうえでも僥倖でした。

前回の記事でとりあげた聖路加ガーデンと明石町が南にあります。
現在地は湊というようです。

明治時代初期 1875年頃

○ 佃島波船場と記載されています。住所は船松町と記載。

明治期の船場のあたり、現在もこの辺りに水門があって、この前だけ水深が深くなっています。(隅田川の水深は4mくらいですが、ここだけ6mくらいありました。)

そこで釣り糸を垂らしてみるとハゼが釣れました。
絶好の穴場を見つけたと違う日にいってみたら全く釣れず。釣りは難しい。

結構良い形のハゼ。天ぷらにしようと思いましたが、時間もなかったのでリリースしました。このくらいの大きさでも可食部はけっこう少ないんですよね。面倒くさがらずに丁寧に開いて天ぷらが一番おいしいかなぁ。姿形もかっこいい。釣りをして学んだことは、汽水や海水域はとんでもなく弱肉強食の世界だということ。こういう小さめの魚は大きな魚に丸飲みされてしまうし、海鳥もけっこういます。釣れないなと思っていると足下から魚をくわえた海鳥が浮いてくることもしばしば。

○ 南の赤い建物は海岸女学校 江戸時代末期は肥後熊本新田藩 細川能登守利用 3万5千石と書かれていました。

こちらは青山学院の原型となっている学校
青山学院大学の沿革丸写しですが

青山学院の歴史は、米国のメソジスト監督教会が日本に派遣した宣教師によって創設された3つの学校、1874年にドーラ・E・スクーンメーカーによって麻布に開校された「女子小学校」、1878年にジュリアス・ソーパーによって築地に開校された「耕教学舎」、そして1879年にロバート・S・マクレイによって横浜に開校された「美會神学校」をその源流とします。

1874年●ドーラ・E・スクーンメーカー、津田仙の助力を得て「女子小学校」を麻布に開校
1875年●「女子小学校」を「救世学校」と改称
1877年●「救世学校」は築地明石町に移転し「海岸女学校」と改称

https://www.aoyamagakuin.jp/history/

明石町は天主教会があったり米軍公使館があったり、なにかと米国の力が大きく働いた場所のようです。

津田仙  1837年~1908年(70歳没)
佐倉藩出身

順天堂大学の祖となった佐藤泰然も佐倉藩出身。

佐倉藩主で老中の堀田正睦は蘭癖と呼ばれ鎖国の中にある幕府の中にあって海外に目がいっている人物だったようで、その気風が佐倉藩にもあるようです。

津田仙は1872年の岩倉使節団に娘の津田梅子を参加させ(当時6歳)その時に一緒にいった山川捨松(当時11歳)と10年後の1882年に帰国。

この山川捨松という人は陸軍大将大山巌の奥さんになるわけだけど、なんだか僕の中でいろいろと歴史が繋がってきて、テンションが上がる部分であります。

6歳で親が海外に送り出すくらいですから、津田梅子はそうとう出来がいいんでしょうね。なお幼少期に海外にでたので母国語が終生英語だったということ。となると、6~10歳くらいが言語で最も重要な時期だといえるようです。

青山学院資料センター 海岸女学校最初の校舎 築地居留地10番 1876年(明治9年)完成


明治後期 1900年頃

〇 佃渡は南下して、現在標識のある場所に移動したようです。

〇 海岸女学校も移動した様子。

1888年●「海岸女学校」の上級生を青山に移し、「東京英和女学校」として開校

青山学院の歴史

〇 町名が船松町というのも江戸時代から続いている町名のようです。

大正時代関東大震災前 1920年頃

〇 北に東京湾汽船会社という表記があります。1890〜1942 渋沢栄一関連会社のようです。現在の東海汽船。伊豆大島などの離島への船も運行しているとか。いつかは釣りしてみたいです。

昭和初期戦前 1935年頃

〇 関東大震災後の復興計画で船松町の町名はなくなりました。北側にあった河川も埋め立てたようにみえます。(現在水門があることを考えると暗渠化か)

〇 ドライアイス工場というのがありますね。これは現在地と照らし合わせるとニチレイの前身の会社のようです。時代的に大日本製氷か。

「製氷業界のドン」こと和合英太郎(わごうえいたろう)は同業他社を買収しまくるM&Aの元祖とも呼ばれているようです。

英太郎は「製氷業者同士の過当競争は不利益をもたらす」との信念から、全国の大小さまざまな製氷会社を買収・合併していきます。1919年には最大のライバルだった東洋製氷と合併し、新会社・日東製氷を設立。28年には、関西を拠点とする老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称し、社長には英太郎が就任しました。
「西の氷王」と称される龍紋氷室社長の山田啓介は、英太郎率いる日東製氷による業界再編に強く抵抗したとされていますが、最終的には「二重投資および両社対立の不利をさけて、会社の健全な発展と株式社員の一層の幸福のため」に決断。この合併が実現して、名実ともに「製氷業界のドン」となった英太郎の喜びは、ひとしおだったようです。
英太郎が1933年に病気で社長を辞任するまでに合併した会社の数は80、出資した会社の数は60におよびます。製氷事業を通じて、食や衛生などの分野の発展に貢献した英太郎はその功績が称えられ、39年の死後、従六位に叙せられました。

ニチレイのホームページより

〇 海事部という表記もあります。

高度経済成長前夜 1955年頃

〇 案内板によると1955年のこの時期の佃島渡は一日に70往復していたようです。仮に5時から17時までの12時間ぶっ通しで運行していたとすると10分に1回というハイペース。

中央区のホームページに廃止直前の写真がありました。(1962年)

〇 海事部は海運局支局となっています。国交省の部署だったようです。今は明石児童公園となっている場所。

バブル期 1990年頃

〇 佃大橋ができたのが東京オリンピックの1964年 橋からの眺めって良いですよね。遺伝子には組み込まれてない視界感があります。
橋から川を眺めるというのはプチトリップという感じ。

月島側からみた佃大橋 橋の近くにあるのがニチレイのビル


こちらは東京時層地図を開いた場所から石川島を見た図

大川端リバーシティ21 センチュリーパークタワーは756戸 地上54階の超高層マンション。

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