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【新宿区】新宿御苑の大温室から

今回は新宿御苑から。

年パスを買って新宿御苑に来ていますが、大温室に入るのは初めてでした。

温室に入ると子供の頃を思い出します。家族旅行で行った先の施設にけっこう温室があったような・・・(たぶん2,3個なんだろうけど)

80年代前半は、休日は家族そろってで観光スポットに行くのが世の中の定番だったと思います。

温室ブームだったのか、いったところにたまたま温室があったのか、温室に入ったことを覚えているだけなのかわかりませんが、温室の中は外の世界と全く違ったことを覚えています。

大きなサボテンやバナナがなっていたり、蝶が飛んでいたり。

もう一つの思い出となっているのが、そういった観光地に向かう途中の高速道路の大渋滞にハマって父母が険悪な雰囲気になり、母親が車を降りて歩き出した事。あれには驚きましたが、他にも歩いている人、我慢できなくて高速道路の路肩でオシッコをしている人が居たので、そういう時代だったのかもしれません。

今は人口が減ってレジャーも多様化しているので、全員が車にのって休日は一つ所を目指すという時代ではなくなっています。

そんなことを思い出した大温室。

今の僕は当時の父親の年齢を10歳以上も上回っていますが、電車か自転車移動、生活環境もまるで違うところに住んでいます。

渋滞が嫌だからみんなと同じ方向にいくのは嫌だなと思っていたけれど、まさか車も乗っていない生活をしているとは…

さて大温室の歴史、というより新宿御苑の歴史ですが

徳川家康の譜代家臣の内藤家がこの地をもらって屋敷と庭園としていたようです。

この辺りが内藤新宿というのもそれが由来。

左の玉藻池は江戸の名園の一つだったようです。

明治に入り、江戸時代以来の内藤家の邸宅地と周辺地計17万8千坪(59ヘクタール)を購入した大蔵省は、明治5年(1872)に牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けました。 明治6年、新宿試験場の業務は、大久保利通を内務卿とする内務省の勧業寮に引き継がれました。場内には、牧畜掛、樹芸掛、農事修学所、製茶掛、農具掛、農学掛などが発足し、勧業寮新宿支庁が置かれました。「広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し、各府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」ことを目的として、国家規模での農業技術行政の取り組みが行われました。

当時は、欧米から種子や苗を買い入れるほか、ウイーン万国博から持ち帰ったもの、中国まで出張して探してきたものなど、さまざまな方法で植物を集めていました。明治7年に試験場内に農業博物館が完成し、種子や材木の見本、肥料、紙、骨格標本、鉱物、土壌、また、農業や動植物などに関する書籍や辞書のほかに、音楽書など幅広く収集しました。場内には2000種以上もの植物が生育し、分類見本園も計画されていたということです。

明治8年には試作した外国果樹が結実し、選抜した優良品種を各地に送りました。当時の試験場の畑は、水田、穀物畑、蔬菜園などの7園に分かれていましたが、さらに桑畑、茶園などが加わり、明治10年には栽培植物数も3000種を超えました。同年、110平方メートルの西洋式温室が完成し、明治4年に設置された開拓使青山試験場の温室とともに、日本の西洋温室の先駆けとなりました。
場内では植物栽培だけでなく、鳥などの畜産の飼育や、養蚕、製紙、製茶の試験研究も行われ、試作が始められた缶詰は、のちに製品として払い下げられるようになりました。

https://fng.or.jp/shinjuku/gyoen/history/
明治初期

なるほど、明治初期の名称は植物御苑となっています。
北側が内藤新宿、東に四谷大木戸があって甲州街道の宿場町として栄えていた名残がみてとれます。

新宿御苑は明治に入ってから国をあげた農業動植物の研究施設だったようです。都心に近いわりには広大な敷地を持っていることからだとおもいます。
当時はほどよく郊外だったのでしょう。

地図の表記も桑、李、桜、杉、菊、梅、奈などが見えます。

明治10年には110平方メートルの温室が完成。新宿御苑温室の歴史145年の歴史。明治政府とともにあるような歴史ですね。

ここには書かれていませんでしたが、御苑では御料乳牛(宮家へ献上する牛乳)もやっていて、その出来が良くなくて、渋谷の常盤松あたりの乳牛場の乳を使う事にしたということでした。
酪農は明治維新で仕事が無くなってしまった旧士族がやるわけですが、武士が牛乳などとはなにごとかとお家騒動にもなったんだとか。


明治後期

明治後期

新宿御苑の立役者、福羽逸人(1856~1921年)

明治31年(1898)、福羽逸人卿は新宿植物御苑の総指揮者となります。当時の日本では、欧米の建築や洋風庭園の様式が風靡されており、御苑も庭園として修築される機運に向かっていました。
明治33年(1900)、パリの万国博覧会へ園芸出品審査員として出張した卿は、菊の大作り3鉢を展示し高い評価を得ました。この時卿はヴェルサイユ園芸学校の造園教授アンリ・マルチネー(Henri Martine、 1867~1936)に、新宿植物御苑を庭園に改造する計画を依頼し、翌明治34年(1901)に植物御苑改造計画を宮内大臣に提出し、5ヵ年の改装計画事業が始まりました。

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福羽逸人は津和野藩出身(島根県)、津和野藩士の福羽美静の養子になり上京、幼少のころから植物に強い関心をもっており、明治8年1875年19歳で内藤新宿試験場(この場所)の実習生となったようです。

10代のころから新宿御苑一筋。40代後半で新宿植物御苑の総指揮者

まさに新宿御苑とともにあるという人生です。

ここまで植物に強い関心があるということは、本人の資質もさることながら、父が亡くなって養子に出された逸人少年の幼少期からの精神的な救いだったのかもしれません。

以前甲州街道沿いのNTTビルの東のあたりに当時の福羽邸があったことを発見しました。家をでて甲州街道を一本で新宿御苑に到着します。


大正時代

皇室庭園となったため、地図では白抜きです。ゴルフコースも8つあったようです。

大正12年 1923年 100年前

100年前の正門。今は閉鎖されています。

当時は正門、甲門とあったようで甲門は現在の千駄ケ谷門、内藤家の表門だったようです。

今のように木々がそんなに目立たない。都内に関しては今は昔よりも自然豊かだと思います。

昭和初期戦前

昭和20年(1945)の3度の空襲により、旧御凉亭と旧洋館御休所を残し、苑内はほぼ全焼してしまいます。事務所とともに、書籍やマルチネーの原図を含む図面などもみな焼失しましたが、洋書のランの栽培書だけは、地下ボイラー室に避難させてあったために、戦火を逃れ貴重な資料となりました。
戦争という厳しい状況の中では、御苑といえども庭園でありつづけることは不可能でした。
人員は削減され、最小人数できりもりすることになりました。温室では、御苑で作出したラン数鉢を、苑内で集めた薪を使ってようやく越冬させるほどでした。
食糧増産のために、芝生は開墾され農耕地となり、農兵隊がジャガイモやサツマイモ、麦などを栽培しました。

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サツマイモを栽培しているという記述で思い出しましたが、空襲時の大混乱で新宿御苑に人が押しかけ、「陛下のお芋があるから」と立ち入りを止める職員と「こんな大変なときにそんなこと関係あるか!」と小競り合いの末に押し入ったと書かれた本があったことを覚えています。

どんな本だったかは失念してしまいました。新宿区史跡散歩だったか。


高度成長期前夜 1955年頃

昭和24年(1949)3月、都立農業科学講習所は廃止され、4月1日から「国民公園新宿御苑」と名称をあらため、5月21日に正式に公開が始まりました。
最初の入園料は20円で、翌年3月までの10ヵ月間で105万人もの入園者数を記録しました。
その後まもなく入園者サービスの充実を目指し、財団法人新宿御苑保存会(現在の一般財団法人国民公園協会新宿御苑の前身)が発足し、福羽発三氏が初代理事を務めました。
中断されていた観菊会は、開苑から2年後の昭和26年(1951)に内閣総理大臣主催の「菊を見る会」として再開し、観桜会も、その翌年に「桜を見る会」としてふたたび催され、伝統の花々が初めて一般に公開されることになりました。
その後昭和33年(1958)に、当時としては東洋一の規模を誇るドーム型の大温室が完成。

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昨今問題になって、2022年7月の安倍元首相の暗殺事件によって完全に終焉を迎えたような感のある「桜を見る会」これは歴史がずいぶんあったんですね。

昭和33年ドーム型大温室 完成

平成24年に現在の形に新しくなりました。

旧大温室


バブル期

昭和46年(1971)の環境庁の発足にともない、全国の国立公園とともに所管を環境庁に移し、平成13年(2001)の省庁再編により環境省所管として現在に至ります。
皇室庭園時代の歴史建造物「旧洋館御休所」は、平成13年(2001)に国の重要文化財(建物)に指定され、平成16年(2004)には「旧御凉亭」が東京都歴史建造物に指定されました。
平成18年(2006)に皇室庭園開園100周年をむかえ、伝統の菊花は、平成19年(2007)にニューヨーク植物園、平成26年(2014)にベルサイユ宮殿に展示されました。
江戸の大名屋敷から皇室庭園、国民公園として、400年を超える時代の中で、さまざまな役割を担い、発展を遂げてきた新宿御苑は、日本における貴重な歴史文化と自然を継承する庭園として、時代を超えて人々に愛され続けています。

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大温室は平成24年(2012)に絶滅危惧種の保存・展示を行う環境配慮型の温室となりました。入室は無料。

温室の歴史、明治10年から幾多の困難を乗り越えて145年。

世代が入れ替わっても思いは受け継がれていくんだなと、おもわず鬼滅の刃のセリフを思い出しました。

それとも人間には植物を愛でる性質があったりするのかもしれません。逆に植物が人間に愛でられる戦略を取っているのかもしれません。

小麦が世界的に繁栄しているのは小麦の戦略である。そんなことがサピエンス全史には書かれていましたね。


2022年現在 入園料500円、年間パスポート2000円、何度行っても発見がある素晴らしい場所です。

以下の植物写真は娘撮影。スマホ渡したら撮りまくっていました。

多肉植物
サボテンと言えばこういう大きいサボテン、うちにもありました。
これがカカオの木か・・
寒くなる季節も楽しみですね。

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