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【千代田区】喰違木戸跡・今も江戸の雰囲気が残る外堀遺構。

大久保利通が襲撃された清水谷からほど近くにある喰違見附。

喰違見附から外堀側を望む

江戸期には紀伊徳川家の東、現在では赤坂御所の東に面した外堀の遺構です。

1612年に丸亀藩藩主 生駒隆俊らによってつくられたとのこと。(千代田区公式ホームページ)

しかし隆俊は1611年生まれで家督をついだのが1621年。千代田区の記述があっていれば時代的に生駒隆俊の父、生駒正俊がつくったものとおもいます。

生駒隆俊の母は徳川家康側近の藤堂高虎の養女。藤堂高虎は桝形門のシステムを考え出したといわれています。

隆俊=高俊は成人後、政務をほったらかしにして美少年との遊興に浸り、それをめぐって重臣たちの間に、権力争いが勃発。これが幕府のしるところとなり、1641年に生駒家は改易。

有能な祖父の元に産まれ厳しく育てられた挙句、成人後は爆発して身を亡ぼす。いつの世の中もにたような話を聞きます。元ネタがWikipediaなのでどこまで本当かはわからないですが…

この場所は外堀の各見附がつくられたのが大体1636年前後なので、それに先立って作られた場所です。

枡形門がつくられる前は各見附はこういった形の土塁だったのかもしれません。

あっと・・・この案内板には1612年に旧武田家家臣の小幡景憲によって縄張りされたと掲示板には描かれている。しかし小幡は軍学者で大名じゃないので、小幡が設計図を作って生駒が費用をだして築いたということ?

この場所から北は四谷見附、南は赤坂見附があります。これらの見附が様変わりしたのとは別にこの場所は江戸期の雰囲気を残しています。

紀伊徳川家跡から赤坂御所に変わったことで、この周辺は開発をまぬかれたからだと思います。

これが軍用地になっていたら、のちのち開発が進み新宿戸山公園のように江戸の面影をしのばすものはなにも無くなっていたかもしれません。

現在の地図

現在の地図

東に ホテルニューオータニ 
北に 紀尾井ホールと上智大四谷キャンパスとイエズス会修道院

紀尾井ホールはコンサートホールとして有名です。

上智大はキリスト教系の大学でフランシスコ・ザビエルが大学設立の元になっているんだとか。なるほどだから教会と修道院があるんですね。2019年にはここにローマ教皇が訪問。

外堀は埋め立てられて上智大の野球場になっています。

一つおもったのが現在の西新宿には古墳群がたくさんあったのですが、そこにキリスト教系学校が入ることによって、古墳群が跡形もなくなくなってしまったと地図で読み取ったことがありました。違う思想が絡むと以前からあるものは消されてしまうのはありがち。



大江戸今昔巡り 江戸末期1860年代の地図

1860年頃

北に尾張徳川家、東に井伊掃部守直弼、西に紀伊徳川家という場所。

明治9~19年 1876年~1886年 の地図

東京時層地図9~19年

1874年 明治7年 1月14日夜 喰違見附にて 当時の右大臣 岩倉具視が土佐出身の士族に襲撃されます。

近世名士譚 明治41年6月出版 を要約すると

赤坂御所からの宮中晩さん会の帰りみち、当の岩倉は具合がわるくなって外の空気を入れるために馬車の戸をすこしあけていた。

首括り松という松に差し掛かったところでヤアヤアと外からただならぬ物音。一人の御者は切りつけられ倒れ、一人の御者は血まみれで逃げ出した。

岩倉ははやくも戸をあけ、地べたを這いつくばりながら、土手までいって濠の水の中に身体を隠した。

1月で一番寒い時期だけれど見つかったら命がないのでそんなことをいっていられない。

斬られた御者は血だらけで岩倉邸にもどり、

「御前が斬られた!」と報告。

岩倉邸から大勢で現場にいってみるとすでに人だかりができていて、斬られたもう一人の御者の一人もうんうんとうなっている。

家令の藤川は

「おい!太郎!これっぱかり斬られたからってしっかりしろ!御前はどこだ!」

太郎は

「自分が斬られていないからってひどいこというな 御前は無事だ」

「御前は無事だってどこにいるんだよ」

すると声がして

「コレコレ、おい、藤川、わしは濠のなかじゃ」

と、濠から首だけだしている岩倉卿。

1時間あまり冷たい水の中に浸かっていたのだとか。

というお話。この話も本当ですかね。1月に濠に1時間もつかっていたら死んじゃう。

ともあれ岩倉は助かって、襲撃した土佐藩士の武市熊吉以下9人は断罪となったというのが

喰違見附の変

夜に襲撃されて夜目もあるとはいえ、9人に襲撃されて生き残っているというのは非常に強運ももっていたといえるとおもいます。

赤坂御所に向かって撮影。岩倉はこの濠に身を潜めて助かった。

ちなみにですが当時の岩倉の屋敷があったのは皇居外苑 皇居外苑に家があった人は岩倉のみ。いかに実力者だったかがわかります。

当時の岩倉邸にいってみましょう。明治9~19年の地図

岩倉邸

南に元老院、西に華族会館という場所、まさに明治の元勲。こんなところに家がある人いますか??明治の世でも岩倉一人です。

現在の場所はといいますと

現在の地図

皇居外苑、楠木正成像の北側です。警察の派出所の北側にあたります。

実に良い場所です。皇居外苑というのは管理が環境省。こういったところがあるというのは本当に素晴らしいです。

岩倉邸から東京駅側に向かって撮影
皇居外苑の岩倉邸跡から

喰違見附から岩倉邸、皇居外苑の派出所までは3キロあまり。150年前の岩倉襲撃事件を空想しながらの散歩というのもありですね。


もどりまして喰違見附

外堀の内側から。小高い土手になっています。これも江戸時代を彷彿させる造りです。
喰違見附から弁慶濠の眺め。素晴らしいですね。江戸城外堀一の眺めといっていいかと思います。
四谷方面の眺望。これもいいですね。
赤坂御所側からの眺め
外堀では野球をしています。いいですね。外堀で野球しているなんて。ただここは賃貸で2028年までの契約らしいですけれど、更新されるでしょう。

今回は江戸城外堀最高の眺望を誇る喰違見附からお届けしました。

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