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【墨田区】関東大震災100年 横網町公園慰霊堂

2023年の今年は関東大震災から100年にあたる年ということで、横網町公園の慰霊堂にいってまいりました。

横網(よこあみ)なんですよね。国技館があって相撲もやっているから横綱だ(よこづな)とずっとおもっていました。

1923年9月1日に関東大震災が起こり、この場所にあった陸軍被服廠跡に避難した3万8千人の方々が火災旋風に巻き込まれ亡くなりました。関東大震災で東京で亡くなった方の3分の1以上がこの地で亡くなったことになります。

東京時層地図を見て回るうえで関東大震災は非常に重大な出来事、分岐点ですので、いつかは訪問したいと思っていましたが、あまりに被害規模が大きいので気おくれしてしまっていました。

今回は100年という節目ですし、娘も小1になり多少はこちらの話したいことも伝わるかなとおもって訪問となりました。


現代の地図

9月3日土曜日 昼 この日は34・6度と暑く、両国駅を降りた途端、熱気がまとわりつく感じ。10歩歩くごとに「まだつかないの」とせっつく娘をごまかしつつ、日陰がある旧安田庭園へ。

旧安田庭園

安田庭園は関東大震災後に完全崩壊しましたが、その後再建。ここにあった安田邸での死者は50人とかなりのもの。安田善次郎は東京にいませんでしたが、その息子も巻き込まれています。
駒止岩 1631年の台風で隅田川が大洪水となり、徳川家光が状況を調べさせようとしたところ、あまりの濁流に誰もがしり込み。そんななか、旗本の阿部忠秋が進み出て馬を乗り入れ、川を渡って被害状況をしらべて回った際に、馬を止めて休憩したところがこの駒止石 ということ。徳川家光伝多すぎ説。逸話的にも愛宕神社の男坂の話にも似ています。今まで何回徳川家光由来に出会ったことでしょう。 


旧安田庭園内は日陰はあるものの暑さは変わらずに、10分も歩かないうちにこれはもう熱中症になってしまう危険があるかもということで、隣接する建物に避難しました。

刀剣美術館

クーラーの効いた広々とした空間で、大人1000円。もともと代々木4丁目にあったものが、平成30年にこの地に移転。

どんなものが展示されているのかとおもったら、名前の通り刀剣なのですが、意外だったのは刀は現代でもつくられているという事。
てっきり日本刀は江戸時代で終わりかとおもっていたのですが、そうではなかったようです。

刀の銘も 令和五年備州住長船 など昔っぽい名前。刀とは現代では伝統工芸だったんだと理解。
なかには 令和二二年 というのがあり、こちらはもしかすると令和四年なのでしょうか。4にすると縁起が悪いとか。

たっぷり刀剣美術館で涼んだ後、日が陰るころに横網町公園に向かいました。

慰霊塔

回りを散策していると、慰霊堂のほうでなにやら行われているようす。
よくよくみると東京神社庁が主催している関東大震災百年物故者慰霊祭

だれでも参加可能だということで中に入り慰霊祭に参加することにしました。

慰霊堂


慰霊堂 内部

もし旧安田庭園や刀剣美術館で時間潰していなかったら、慰霊祭のことにも気が付かなかったでしょうから、不思議なめぐり合わせとしか言いようがありませんでした。

ここで亡くなられた3万8千人の方々のご冥福をお祈りするとともに、お見守りくださるようにお願いをしました。

防災についての考え方もとりとめなく考えました。

避難場所となったこの場所で火の手に囲まれてしまったわけですから、どうすればよかったのか。人が多い場所には近づかないほうがいいのではないか、しかし避難場所である。被害が甚大すぎるとも、個人レベルの生死はもはや運でしかないのではないか等々。

それでは東京時層地図へ


明治初期

現在の旧安田庭園は池田邸 国技館の場所には田安徳川邸

多くの部分は運河が多く、陸軍倉庫となっています。江戸時代までさかのぼると御米蔵と書かれていました。

墨田川沿いの米蔵が転用されて陸軍倉庫になっていたと。

この時代は物流は水路が中心だったということもわかります。


明治時代後期

陸軍倉庫は一部の水路を残して

1890年 明治23年 陸軍被服廠へ。

軍服を作って整備しておく場所なので、水路もある、総武線もあるということで当時は物流に便利な場所だったのでしょう。

1904年 明治37年に両国駅ができます。総武線は都心から伸びたのではなく、東から伸びてきたのですね。これも意外。

1919年 大正8年に被服廠は王子区赤羽台に移転。

両国の被服廠が手狭になったり、物流が水路から陸路に変わった時期なのでしょう。

安田財閥の安田善次郎が田安徳川邸、池田邸を購入しこの辺り一帯の大地主になります。今ある安田学園も安田善次郎が創設者。
安田は表向きはケチでしたが「隠徳」といって名前を出さないで様々な事業に寄付をしていたようです。日比谷公会堂もその一つ。寄付をしていることを大っぴらにしていたら国粋主義者に刺殺されることもなかったかもしれないなと思ったり。

南側に国技館があります。
1909年 明治42年 竣工
今の国技館とは違う場所にあります。


大正時代 関東大震災直前

陸軍被服廠は1919年 大正8年に赤羽に移転しています。

関東大震災は1923年 大正12年。

まだ陸軍被服廠があったら人がこれほどは集まらなかったかもしれませんし、なくなる人も少なかったかもしれません。避難場所が災害場所になってしまうのはなんともやりきれない。

最初、横網町公園のみで多くの方が亡くなったとおもっていましたが、陸軍被服廠跡は災害発生時は今の江戸東京博物館から、横網町公園までの広範囲だったことがわかりました。

被服廠跡の火災は地震発生から4時間後、永代橋火災崩落は9時間後と考えると、避難までにタイムラグがあるので遠方に一時避難するという手段も考えられますが、家庭があったり仕事があったりするとそれも難しい。

わが身を振り返っても

東日本大震災でも放射能云々と騒がれているときにも南の島にいくことなく、日常の生活を続けてしまったし、コロナで緊急事態宣言といっているときも、緊急事態宣言だから休みますなんて言えるわけもなく、結局は普通に出勤していて、日常を曲げることがなかったので、もし関東大震災級の災害が襲ってきたとしたら考えるには考えるのですが、その場になってみないとわかりません。


1935年 昭和10年頃

昭和5年 1930年に 震災記念堂として伊東忠太建築で現在の慰霊堂ができます。

昭和10年 青果市場ができる。

昭和20年 1945年 東京大空襲 震災記念堂は焼け残る。この辺りは一面焼け野原なので、コンクリート造であったので爆弾の標的にはなってはいないのではないでしょうか。米軍は空襲の際に木造建物が効率よく燃えるように焼夷弾の実験を繰り返したとあります。

戦後、震災記念堂には空襲で亡くなった方の遺骨が納められ、
昭和26年 1951年に東京都慰霊堂に名称変更。


1955年 昭和30年 高度成長期前夜

国技館は国際スタジアムと名前が変わっています。この時代も両国駅北の運河のようなものがあるようです。

1990年 バブル期

1985年 二代目国技館が完成
両国公会堂は1926年建築で、2016年解体

終わりに

関東大震災100年という節目に横網町公園慰霊堂に訪れ、慰霊祭にも参列することができ背筋が伸びました。

帰りに宗教系の新聞社の方に取材をされました。古地図を見てここが被害甚大だった場所だと知って来ましたということを言ったので、記者の方の思うような話にはならなかったと思います。どんなことを書かれたのか見てみたいような気がしますが、売っているわけでもないので確認のしようがありません。

帰りに両国の隅田川で釣り糸を垂れてみたのですが釣れませんでした。


最近は隅田川近辺で遊ばせてもらっているので、そういう意味でも慰霊堂に訪れることができて良かったです。


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