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【台東区】旧岩崎庭園

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上野動物園の帰りにちょっと足をのばして、旧岩崎庭園にいってきました。(現在オミクロン株により閉鎖中)

国の重要指定文化財で現在の建物は三菱三代目の岩崎久弥がジョサイア・コンドル設計で建築。

今はなき鹿鳴館(コンドル設計)の雰囲気も感じることができます。(なんとなく)

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右が洋館左が和館。洋館は意外に天井が高いのが驚きポイントです。

現在の地図でみるとこんな感じ。

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岩崎邸は今の倍以上の敷地だったということがこの地図からもわかります。

まずは江戸時代末期の1860年頃の地図。(大江戸今昔巡り)

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越後高田藩 榊原式部大輔政愛(まさちか) 15万石

正室は水野忠邦の娘 水野忠邦は天保の改革で有名です。水野忠邦の腹心の遠山の金さん(遠山景元)も有名ですね。実は東大の前田邸と隣り合わせの土地になっています。

北側は無縁坂 切通し北町 

南側は根生院(ご府内八十八か所 35番 東京版お遍路コース)

無縁坂はさだまさしの歌になっています。

しのぶ しのばず むえんざか ささやかな かみしめるような ぼくのははのじんせい 


今回は庭園内の敷石の場所から東京時層地図。

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著者。敷石が大きい立派な庭。庭園は改築工事中です。


明治9~19年の地図

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庭の池も大きいですね。

ウィキペディアによると

旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷であった。湯島の敷地は桐野利秋の大邸宅を払い下げられたものである。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878年(明治11年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によってジョサイア・コンドルの設計で建てられ、1896年(明治29年)に竣工したものである。1923年(大正12年)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。

桐野利秋という人物の名前が出てきました。桐野は薩摩藩士。

桐野は通称 中村半次郎 

戊辰戦争でも西郷隆盛の片腕として活躍し、明治政府になってからは陸軍少将 西郷隆盛が下野し、西南戦争を起こす際には味方し西郷とともに戦死。

西南戦争で最大の戦地となった田原坂は歌にもなっています

「あめはふるふる じんばはぬれる こすにこされぬ田原坂」

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錦絵にも頻繁に登場しますので、西郷隆盛につづいて評価が高かった人物のようです。

隆盛が半次郎を表するに

「彼をして学問の造詣あらしめば到底吾人の及ぶ所に非ず」

ということですから、かなりの人物だったのでしょう。

明治維新の勝ち組で一時この土地を得ましたが、彼もまた時代の波に揉まれてしまったという形です。西南戦争も戊辰戦争明治維新の余波でしょう。

ほんの145年ほど前には日本もバチバチの内戦していたのだなと改めて感じます。

海外で内戦が起こって既存の政権が覆されるのと一緒で最近だとアフガニスタンのタリバン政権、ミャンマーの軍事政権ですね。明治政府体制は現在も続いているといえます。

現在の岩崎庭園はこの時代には

榊原式部大輔政愛→桐野利秋→牧野弼成(すけしげ)(舞鶴藩藩主)→岩崎弥太郎(三菱初代)→岩崎久弥(三代目)

という持ち主の系図。

明治後期

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南にあった根生院は廃寺。現在は豊島区高田にあります。

廃仏毀釈の流れ。この時代は神道を中心とした国づくりに方向転換していった時代なので、お寺も生き残りが大変です。

個人的な妄想ですが、生き残れるとしたら、薩長側の有力者を味方につけるしかない。今までで調べた中では、中野の成願寺は鍋島家の墓所があるのでうまく生き残れたのではないかと思いました。

岩崎邸の現在の建て物は明治29年 1896年に竣工。

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岩崎久弥邸はこの茅町の他に深川邸があります。深川邸は茅町邸よりさらに大きいです(関東大震災で崩壊 現在の清澄庭園)

こちらは館内にある岩崎久弥の家族写真。

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岩崎直系の一族。日本一のお金持ち家族ですからちゃんとしていますね。

左から3番目の喜勢さんは岩崎久弥の母で三菱始祖の岩崎弥太郎の妻。

左上の綾子さんは2018年までご存命。109歳という長寿だったようです。

久弥氏も長寿で90歳没。

その場所で記念撮影をしました。

日当たりがよくて素晴らしいです。長寿でお金持ち一家の恩恵にすこしでも与かれれば(笑)実際には岩崎家に産まれたら庶民にはわからない重責を背負わされて大変だろうなとは思います。

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このほか岩崎邸は弥太郎の弟系一族の邸宅である高輪岩崎邸(開東閣・三菱グループの持ち物・非公開)と久弥の別邸である深川岩崎邸(清澄庭園)などです。


大正時代

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北側にお寺が2つ 学校が2つあります。

昭和戦前

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高度成長期前夜 1960年代

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戦後、GHQに接収されこの時期は裁判所書記官の研修所に。

1969年(昭和44年):和館大広間を重要文化財に指定。司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となる

ウィキペディアによると撤去された和館のほうが文化財としての価値が高かったと解体後にわかったのだとか。

バブル期

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バブル期の1980年代でも岩崎邸は司法研修所として利用されています。

都立公園として開園するのが平成13年2001年の事。

2003年より通年公開。うーん、素晴らしい。感謝です。

ジョサイア・コンドルは園内にあるビリヤード場も設計しています。

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中はこんな感じ。

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ビリヤードは明治の上流階級の競技で、大正になって民衆にひろまり、昭和になると爆発的に増えて2万軒以上になったようです。(現在は1500軒ほど)

洋館の南側。

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洋館と隣接している和館ではお茶席があり和三盆とお抹茶なども食べることができます。

次回訪問したときに食べたいとおもいます。

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