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【中央区】築地本願寺近辺

この日は自転車で晴海を目指して、通りすがりに築地本願寺の入り口だけ見てみました。今回はここから東京時層地図です。

日本のお寺っぽくないアジアの寺院っぽい雰囲気がありますね。


現在の地図

西には築地場外市場。

築地場外市場には行ったことがないので次回行ってみたいです。子供も刺身が好きだから海鮮丼とか喜ぶのではと、いま地図を見ながらひらめきました。

北に歌舞伎座。 2013年~ 隈研吾建築

自転車に乗っていて子供に撮ってもらったので背中が写っています。こちらで観劇に来る機会はあるかどうか・・・私が歌舞伎っぽいものをみたのは文化村で2012年に天日坊をみたのが最初です。女形の中村七之助さんの圧倒的なオーラが印象に残っています。

南に勝鬨橋。

後日撮影したもの。現在は稼働していませんが、船が通るときに橋の中央がパカッと開く跳開橋となっています。歩くと車通りも相まって普通の橋以上に揺れているので怖いです。戦前の幻の東京オリンピックの為につくられた歴史的建造物です。


明治9~19年 1876~1886年

○ 築地本願寺は1617年に浅草近くに創建。
1657年 明暦の大火で焼失
その後、幕府から与えられたこの土地は海上だったために埋め立てて本堂を建立したことが「築地」の由縁だとか。

現在、築地場外市場となっている場所も本願寺の土地で、江戸時代の地図をみると、築地本願寺の末寺がたくさんあるようです。数えると60あまりありました。

この地図からすると当時の入口は現在と違って西側にあるようです。
この当時に近い図面がありました。(地図と同じです)

○ 訓盲院 障がい者の方を家庭的な雰囲気の中で職業訓練する所という意味らしいです。いまでいうグループホーム的なものでしょうか。

○ 治?裁判所 ちょっと読み取れませんでした。

○ 築地本願寺の北の大名屋敷跡の池は江戸時代の地図をみると
松平信濃守忠質 新御当番 5000石 有力旗本の屋敷だったようです。この時期の地図は明治に入って開発の手が伸びたところと江戸時代を残している部分がありますね。

○ 現在の築地跡地は海軍の施設です。江戸時代は複数の大名が所持していた場所になります。浅野、徳川、伊勢桑名の松平、稲葉など。

明治39~42年 1906年~1909年

○ 西本願寺との表記 
明治初期にあった建物とは違っているのでその間に改築。
築地本願寺は西本願寺と書かれています。

ゲームの「信長の野望」を通った世代ですので本願寺といえば本願寺顕如。本願寺は顕如の代で戦国大名に匹敵をする力を有しますが(信長の野望にも戦国大名として出てきます)顕如の死後、関ケ原の戦い以降の1602年に本願寺は分裂。
あまりにも大きい存在があるとその人の死後分裂しやすいというのは今も昔も変わらないようです。

顕如はお坊さんだから長生きしたかと思いきや享年50歳。
戦っていた人の寿命短い傾向にあるとおもいます。 開祖の親鸞聖人は90歳。戦国大名でバチバチに戦っていたけれど八丈島に流されてのんびり過ごしていた宇喜多秀家は80過ぎまで生きていましたので、激しい生活をするのは30歳までくらいが健康で長生きには良いんじゃないでしょうか。

○ 歌舞伎座は明治に入ってからの演劇改良運動で
木挽町という町名も特徴的ですね。江戸時代は大工さんの街だったのでしょう。

○ 京橋区役所 京橋警察署もあります。京橋区は現在の中央区の南部。

大正5~10年 1916年~1921年 関東大震災直前

明治後期とあまり変わっていない様子。
この後、関東大震災で倒壊。
元々海だった所を江戸時代に埋め立てた軟弱地盤なので、この辺りの被害は大きかった様子です。

昭和3~10年 1928年~1935年 昭和初期戦前

○ 関東大震災の復興で道路が整備され、それに伴って西本願寺まわりも一変。
お墓は明大前の和田堀に移転。子院も各地に移転したようです。

西本願寺も新築されました。昭和9年竣工。

設計は東京帝国大学名誉教授の伊東忠太

当時の本願寺派の宗主の大谷光瑞

2人は伊東が建築研究の為のアジア各国旅行、大谷は仏教伝来を探る旅でシルクロードを旅していたという共通点があり、それがこの寺院の建築にもふんだんに影響されているとか。

うーむ そういうことなら内部を見ておくべきでした。また拝観して写真等追記します。

また

この時の本願寺派宗主の大谷光瑞さんはかなり興味深くて、
・シルクロードを探検する大谷探検隊を3回行い、仏跡発掘。
・孫文と会い中華民国の最高顧問就任。
・戦中は小磯内閣の顧問
・妻は大正天皇の后の姉
と、マンガのような人物です。
実際に大ヒット作品の「帝都物語」の続編の「帝都対戦」で敵国首脳を呪詛により暗殺することを画策する僧のモデルになっているようです。

お坊さんが戦時中の内閣顧問ってもう加持祈祷しか考えられません。
都市伝説好きな人には必須の人なんでしょうね。

ちょっと帝都物語と帝都対戦みたくなりました。子供の頃の記憶しかないので。あ、アマゾンプライムビデオであった。

話をもどします。

関東大震災後の昭和一桁建築って結構多いです。隅田川にかかる橋しかり。
毎度のセリフですが関東大震災後の復興事業のインパクトは本当にスゴイ。

○ 築地市場は関東大震災にスタート。

○ 東京劇場 

昭和5年開業 歌舞伎や軽演劇を上演。歌舞伎座がほどちかくにあるのにまた歌舞伎というのはこの時期の歌舞伎は人気だったのでしょう。1975年閉館。


高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年


○ 歌舞伎座は戦災焼失しますが、東京劇場は焼け残り歌舞伎の公演はここで行われたようです。

○ このあたりは戦災焼失から免れている場所がおおく、それは北側の明石町が外国人居留地だったことも関係しているのだとおもいます。

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○ 歌舞伎座、松竹会館、東劇ビルと、なるほどこのあたりは松竹のシマなんですね。

○ こまかくあった水路もバブル期にかけて埋め立て、暗渠化したようです。

○ 2024年現在築地市場がなくなっても、築地場外市場は残っているという、外からみて不思議な形。
ここだけ再開発されてないということを考えると、地権者は築地本願寺なんだろうなと想像しました。上野とか高円寺はお寺が地権者になっているパターンが多かったのでそういう想像でしたが、ネットでみると地権者は東京ガスと書かれているので、うーむ。ちがったか。

いずれにしろ

明治神宮外苑も再開発の手がはいり、地権者は明治神宮だということを考えると、築地場外市場も地権者次第でいつまであるかはわからないので、いまのうちに行っておかないとと感じました。

いまは円安に伴って海外の観光客が増えていますが、これがインバウンド向け価格になったら買えません。

まさか物価が2割上がって1ドルが156円になって、給料が変わらない世界になるとはね。とはいえ、アベノミクス!とか言って世の中湧いてた時代が一番貧乏していたので、世の中と個人って違いますよね。

次回は内部を拝観したいです。


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