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【江東区】清澄庭園は半分になっていた。

清澄庭園に行ってまいりました。

隅田川が近くを流れているせいか、池の水量が豊富です。

都立庭園は言葉が足りないですが、どれもやっぱり素晴らしいんですよね。足りない言葉は他の方が言ってくれています。

これで入場料150円。

休日は後楽園ゆうえんちだ、ゲームセンターだ、おもちゃ売り場だ、映画だと、消費社会資本主義社会に疲弊している40代後半のオッサンなので、そういった世界から隔絶されたこの空間はやっぱりいいなぁ・・・

おとしよりがこういう公園好きな気持ちがわかります。若いころは見向きもしなかったのですけど。


まずは大江戸今昔巡り 1855年江戸末期から見ていきましょう。

この時期は
下総関宿藩 久世大和守広周  1819~1864年

久世 広周(くぜ ひろちか)は老中。安藤信正とともに公武合体を推進。安政の大獄(1858年)で罷免、桜田門外の変、井伊直弼暗殺後(1860年)に老中に復活、その後失脚して蟄居。蟄居というのは自室からトイレ以外は出られないということになりますが、今の引きこもりとはワケが違うので、数年で亡くなるのは心労もあるんでしょう。

老中になる家柄は家康以来の譜代の家臣が主。この時代は先祖代々一族雇用制だったのですね。そしてクビは文字通り本当にクビと胴が生き別れになり、悪くすると改易。一族はおろか働いている人も露頭に迷う。なかなか大変です。

そのほか大きく目立つのが霊巌寺

日本橋近辺にあったのが1657年の明暦の大火によって焼けて当地に移転

徳川吉宗の孫にして、寛政の改革で知られる老中 松平定信の墓があることでもしられています。
また、地名の清澄白河はこの松平定信が藩主だった白河藩から来ているのだとか。

松平定信の寛政の改革は厳しくて、太田南畝に

白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき

と歌われています。

太田南畝って御茶ノ水近辺に終焉の地があったり、四谷の須賀神社に集まっていたっていうことを前に調べたことを思い出しました。


東京時層地図 現代の地図

清澄白河駅の周辺、落ち着いた雰囲気で良かったです。お寺さんがそこかしこにあるのも良い。

今回のコースは清澄庭園を散策して、外にあった蕎麦屋さんでうどんをたべて、銭湯に入るという行き当たりばったりの旅でした。

とりあえず画像をアップしてから、そして東京時層地図と行きたいとおもいます。

庭園の入口北には江戸時代の地図にもあるとおり、本誓寺があります。国学者の村田晴海の墓があるようです。顔が映りこんじゃっているのがアレですが。
村田晴海は代々裕福な肥料問屋だったようです。そして賀茂真淵の門下に入って勉学を修めたとのこと。しかしこの石碑は墓じゃないですよね。墓は寺院内にあるはず。


よく見ると都指定の名勝でした。150円。都内在住の中学生は無料。新宿御苑の500円に慣れてしまっているので安すぎて大丈夫なのかと思ったりもします。まあ大きさも違うか。

ここから清澄庭園に入っていきます。

大正記念館 大正天皇の葬儀の待合室を移築したそうです。平成になってからの改築でほとんど新しいものになったのだとか。
池を挟んで奥にみえるのが涼亭です。1909年明治42年 保岡勝也建築、岩崎弥之助深川別邸池辺茶亭 都指定の歴史的建造物です。一般の立ち入りはできずに、集会場での貸し出しのみとなっています。
池を挟んで築山がみえます。こちらの山には登れません。
飛び石 こういった個所が4,5か所あるので子供は喜んでいました。水辺が他の庭園とくらべてぐっと近いと感じます。やっぱり庭園はいいなぁ・・・
飛び石をトントンと渡っていくのも楽しいです。
水鳥が多いのも特徴ですね。
石段を行ったり来たりで2往復していました。庭園に入る前はいやいや付き合ってくれているという感じでしたが、楽しかったみたいです。
涼亭付近に集まっている水鳥はハジロというようでした。けっこういました。
池の周りをぐるりと回れて見飽きない
いいですね
石碑がありました。

適当ですが読んでみましょう。誤字脱字はご勘弁を

清澄園記

本園は岩崎男爵の別邸になりしを大正13年6月に東京市に公園として寄付せらしものなり。
寛延2年前(1749年)に在りては松平大炊の名見るも以後は久世大和守の下屋敷となり、明治維新後は久しく荒廃に帰せし、明治11年に岩崎弥太郎君始めて附近一帯を整備して、別邸を購入庭園を拓し殊に奇岩珍石を全国より移し来りてその景観をそえ、名付けて深川親睦園と云い内外紳士をかいして深川親睦園といい、その清をともにし、また社員平日の勤労をなぐさむものの所とせりなり。
明治18年に岩崎弥太郎がなくなったあと後継の弥之助は兄の志をつぎ、さらに園地を修造し、間舎を新築して、樹石泉水の配置をより杜橋幽燈のけいちにいたるまで瀟洒清稚の趣を・・・明治時代に営造されし代表的大庭園に住古にも比するもの少なき名園、内外に高きに至れり
大正9年に及び岩崎家は市民行楽の地を思い清澄遊園の名においてその3000坪を公開せられたる
大正12年の大震災にこの名園の建築物と老樹佳木とを併せて殆どを烏有に帰せしめ・・・全園の布置結構においては大変化を来たし・・・久弥君は比較的破損の少なし東上部15541坪を公園として保存すべく本市に寄付せられた
本市は直ちに復旧の工事をおこし2年をへて竣工せし、昭和3年大正天皇の葬儀殿の御下賜ありたるを以てその材料を用いて〇館址に建坪71坪の集会場を建設し、今の大正記念館なり。
本園の私有にきせしは男爵家が市民に封する好〇の発露にして吾ら市民は各自業務の余暇此處に来りて、心身を泉石花木の間に娯ましめ、もってその健康を保持し、徐に本園の由来するところを思はば、これ必ず感謝の情を発し、油然として愛園の念を生ずるものあらん更ににこれを記して後の人に告

ザックリというと

この庭園は岩崎弥太郎→2代目弥之助→三代目久弥とつづく三菱財閥の下賜であるから市民は感謝したまえという今から90年前の石碑です。

上から言われても感謝せずにはいられません。すっかりと気持ちも入れ替わりました。素晴らしい庭園です!やっぱり庭園は良いですね。


石碑の前で記念撮影。
岩崎邸の門だったのかなと思いましたが、地図的にはこれといってめぼしい場所ではなかったです。
築山近辺から。こちらからの眺めも良いですね。
石佛群 庚申塔がありました。
皆様は庚申塔の由来を聞かれた場合どうこたえていますか??私はググッた知識で江戸時代は60日に1日、寝たら寿命が縮む日があって、その日は寝ないでみんなで集まったんだ。それを3年つづけたら記念をして石碑を作ったんだ ということにしています。
木でつくられた橋ですね。こういうところ都内ではあまり記憶にありません。この裏には管理する方と職人さんの矜持があるんだろうなと感謝ばかり。
庭園内の多重塔 岩崎家は色々なものを全国から集めていたと石碑に示されていましたがこれもその一つなのでしょうか。園内には本当にめずらしそうな岩がたくさんありました。
子供大喜びの飛び石
庭園から北にいくと、深川稲荷神社がありました。御朱印はお正月だけという激レア。
本当に小さいスペースです
こちらの石碑にも久世大和守と岩崎弥太郎の名前がでてきます。
お腹が減ったので錣山部屋の向かいの蕎麦屋さんでうどん。園内でお昼たべたんだけどな・・・
深川七福神というのがありました、先ほどの深川稲荷が布袋尊、こちらは大黒天のようです。インドだとシヴァ神なんだとか。
お賽銭したので大黒様のお写真とらせていただきました。
最後に銭湯に めちゃくちゃ混んでいましたね。40、50人はいたのではないでしょうか。銭湯ブームを感じました。


もう3000字を越えてしまいました。

東京時層地図をさらっとみて終わりにしたいとおもいます。

明治初期 今と比べるとさらに池が大きい感じですね。大正記念館まえから東京時層地図をしています。
明治後期 

岩崎弥太郎が買い取って二代目が岩崎別邸としたようです。今の清澄庭園とタダで利用できる清澄公園が合わさったのが岩崎邸なんですね。

こちらが岩崎邸 池ごしに写真をとられています。おそらくは今の清澄公園の西側にあったとおもわれます。(今は池もない公園です)それにしても壮観。湯島の岩崎邸を思わせる造りですね。

建築学会 編『明治大正建築写真聚覧』,建築学会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1223059 (参照 2023-01-29)


大正時代 

岩崎邸のメインの池の部分、浮島があるところをみると今の清澄公園のほうがメインだったんじゃないかと見えてくるわけです。別宅が西側なんだからそりゃそうか的な感じですが。

清澄庭園を目にしたとき、やけに池の部分が大きいな、ほとんど池だなと思ったのは当然で、関東大震災で壊れてしまったからなのでした。この事は三代目が庭園として寄贈したことは石碑に書かれていました。

なお関東震災では庭園に1万人が逃げ込んで助かったそうです。多くの人の命を救った場所でもあります。

ほど近い墨田区の横網公園では避難した人の家財に火が付き公園だけで3万8千人の方が亡くなっています。横網公園もいずれかとは思っていますが、ちょっと覚悟がたりません。


昭和初期戦前

昭和2年に大正記念館ができるんですね。ちょうどこのくらいの時に石碑も作られています。このあたりの時期からいままではほとんど変わらないのではないでしょうか。

西側は関東大震災でほとんど壊れてしまったので清澄製材所を作ったようです。

1955年頃 高度成長期前夜

清澄公園とするべく清澄庭園のとなりの池は埋め立てられているようです。公園のなんとなく盛り上がっているのも埋め立てられた跡なんですね。

バブル期

清澄庭園は都に寄贈
清澄公園のほうは製材所を三菱が建てたとなると、いつ公園になったのだろうと調べたところ1973年に都が買い取り、公園としたようです。

下町は情報がいっぱいなので東京時層地図的には絶好の場所なのですが、キッカケがなくていけませんでした。今回来れてよかったです。

庭園→地元の蕎麦屋さんで食事→銭湯

と新たな方法も開拓。しかし銭湯はめちゃこみだったので場所は選ぶとおもいました。



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