【港区】迎賓館は鹿鳴館ではない。
迎賓館が鹿鳴館だと思っていた時期が私にはありました。
この迎賓館。
北側が入り口だし、建物も北側が玄関なんですよね。
写真を撮ろうとすると逆光になってしまう悩ましい場所です。
迎賓館はもともとは大正天皇の時代に東宮御所として建てられたものです。
一つ疑問があります。
日本の建物は南側玄関が王道と思っていたので、このクラスの建物でなぜ真北が玄関なのかなと。
中国の古典にもあるじゃないですか「天子南面す」 って。
天子は南側に向いていないと不自然なんですよ。
ものの本にもあります。(ジャン・フランソワ・ビルテール著 荘子に学ぶ)
”君主は北を背にし、南方に広がる世界に張り出す。この配置は権力者が儀式的に自己顕示する全ての場において再現された。権力の保持者は北に座して、臣下や子孫が南側からやってきて北に向かってひれ伏すのを見つめる。”
この時代の天皇は日本の最高権力者なのに、なぜ臣下が北側からやってくるのか?と。
入り口が北側にあっても座る位置が南側向いていれば辻褄あうかもしれませんけれど。
京都御所も南向きですし。
それでは江戸時代の地図から追々みていければと思います。
ではまずは1850年代の地図です。江戸時代末期ですね。大江戸今昔めぐり制作委員会さんのアプリから拝借しました。このアプリはすごいです。
徳川慶福 御住居 とあります。
徳川慶福(よしとみ)は徳川幕府14代将軍 徳川家茂が将軍になる前の名前で、慶富を名乗っていた期間は1851〜1858年の間。
その後、将軍となった家茂は1866年20歳で逝去するなど短命でした。
そもそもここは和歌山の将軍家の土地だったんですね。
だから明治維新後にガバッと大きな土地を取れたというわけで。
ちなみに西側には明治期あたりの東京3大スラム街、鮫が橋。
日本初のルポルタージュと言われている横山源之助の「日本の下層社会」に載っています。以前四谷編で取り上げました。
現代の地図です。迎賓館は迎賓館赤坂離宮というようです。
警備は都内随一の厳しさでしょうか。
子供を連れてきたことを後悔するくらいの空気のピリピリ感を感じました。基本的には「くるな」という感じなんでしょうね。とにかく警備の人が多いです。
地図をぱっと見で、ここに迎賓館を作るのであるのなら、南側は湿地帯というか池なので、単純に南側の入り口は厳しいんじゃないかということがわかります。
池あたりに点在している建物は御所や旧皇族の住居ですね。
文明開化時 1876-84(明治9〜17年) 東京時層地図より拝借しています。
徳川家なき後は(家茂の家系は麻布小近くに引っ越しています。今度行こうと思っています。)
賢所、太政官、宮内省、近衛局となっていますね。
賢所というのは3種の神器である八咫の鏡を祀る場所。
一気に日本歴史の中枢、一般人のアンタッチャブルな場所に入り込んでしまった感じがします。
日本の官制は「二官八省一台五衛府」で長らくやってきました。
天皇の下に二官、神祇官と太政官がおかれ、その太政官の中には太政大臣、右大臣、左大臣、大納言、小納言、そして左弁官、右弁官の下に宮内省、大蔵省などの八省が置かれたのです。
明治期になっても太政官は存在し、明治初期の最高行政機関となっています。
1885年に伊藤博文が総理大臣になるとともに太政官は廃止されます。
宮内省は太政官と付随する組織で、後の宮内庁になります。
この時代は基本的には華族が職員になっていて、だから今でも近くに学習院の初等科があるんだという繋がりが見えてきました。
そして近衛局は現在の天皇と皇宮の警備にあたる皇宮警察の前身です。
地図を見るまでは何も考えてもいなかったのですが、赤坂御用地の中に迎賓館、皇室の施設があるというわけでした。
明治末期 1906-09(明治39〜42年)
1909年に建築家 片山東熊によって設計され、現在の迎賓館は建築されます。
片山は「鹿鳴館」を設計したジョサイア・コンドルの教えを受けた弟子でもあります。
鹿鳴館と迎賓館がここで薄くつながりましたが、鹿鳴館は井上薫外務卿の肝煎の社交場だったのに対して、迎賓館は天皇の住まいとして建てられました。
あまりの華美な外観に明治天皇が贅沢すぎると怒ったという逸話があります。
そしてショックの片山は病に伏してしまうという気の毒な話。
皇居を半蔵門から出て、真っ直ぐにいって外堀のある四ツ谷を南下すれば着いちゃうという利便性があるから、北側玄関になったのだと思います。
南側に入り口を作ると、入り方が難しくなるので北側に作らざるをえなかったというのが正解かと。
関東大震災前 1917-28(大正6〜昭和3年)
大正時代となると建物は真っ白。
この時代の大正天皇も住居として赤坂離宮を使用することがほとんどなく、後の昭和天皇が皇太子の時には数年間御所として使用していたようです。
昭和戦前期 1928-1936(昭和3〜11年)
戦中期の地図を如実に表している図です。
改竄描写、白抜き、この時代の重要施設の特徴です。
戦争後に昭和天皇は皇居を出てここに移り住む意見もあったようですが、やはり使い勝手が悪かったということで実現には至りませんでした。
当時は今のような空調設備はないですから、石と煉瓦の建物は日本の気候に全然合わなくて住居としては不向きだったんでしょうね。
高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)
戦後の1948年〜1961年まで国立国会図書館となります。
バブル期 1984-1990(昭和59年〜平成2年)
改修工事は1974年と2008年に終わって、現在の迎賓館となりました。
2009年に国宝に指定されています。
明治洋風建築技術の総決算と言われている建物ですので、一見の価値はあります。
庭園が300円、本館と庭園が1500円。和風別館・本館・庭園で2000円。
その他の詳しい日程はホームページをご参照ください。
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