見出し画像

【千代田区】徳川家にゆかりの深い日枝神社

今回は日枝神社 

イメージではおサルさんを祀っている所。

おサルさんは大山咋神(おおやまくいのかみ)が山の神のために、その使いとして祀られているのだそうです。

神社は周辺と比べると高台にあります。明治初期の地図をみるとわかります。

江戸城の外堀の際にあり、独立した島のようになっているのが見てとれます。

画像4

山門です。立派な造り。山門から伸びる壁がぐるりと本殿を取り囲んでいるのは都内ではわりと珍しいのではないかと思います。

画像1

本殿です。

画像2

裏通りとなるのでしょうか。東側の鳥居の階段です。

画像3

中沢新一氏的アースダイバー、神社のあるところは高台で貝塚や埋葬地があり縄文人の聖地である説。

こちらはどうでしょうか。

東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスには

永田町二丁目で千代田区ナンバー11遺跡として縄文土器がでているようです。縄文人が住んでいたことは間違いないようです。高台にあることから貝塚があるとみても良いと思います。

明治20年代(1890年代)の本を見ると

東京名勝画譜

日本名勝画譜

東京名所図絵

東京名所図絵

東京名所図絵(明治23.2)によると

東京府一の大社であり

文明年間 太田道灌が江戸城を築造する際に平河門内に遷し(梅林坂、皇居内の北側)

徳川家康入城ののちに紅葉山に遷し(江戸城西ノ丸に隣接した小山、皇居東御苑あたり)

さらに城西貝塚の地へうつされ

(ちょっと場所が不明ですね。城西といえば一般的には世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区、新宿区を指すのですが、貝塚って主に城北と城南に集中しているんですよね。皇居内に旧本丸西貝塚というのがあるから多分この辺りなんだと思います。が、都内で貝塚といえば大森貝塚、なんと大森貝塚には大森山王日枝神社があるんですよね。大森山王日枝神社の創建は不明ということでしたが、この時期が創建なのではないかなと考えました。)

承応3年(1654年・4代徳川家綱)に回碌(火災)によりこの地に遷座とあります。

この点はWikipediaと違っていますね。

Wikipediaより

歴史
創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

歴史的にみても日枝神社は徳川幕府、江戸城とつながりが非常に深いものでしたが、徳川幕府が倒れ、明治政府が主権を握ることになっても、国の体制が神道を国教とした方針となったために、悠々と生き延びることができたのだと思います。

徳川の菩提寺だった上野寛永寺、芝増上寺は廃仏毀釈によって過去の栄光は程遠いものになり、寛永寺は上野の山の片隅に、増上寺は徳川霊廟跡にホテルが建ったり、だだっ広い駐車場になったりというありさま。

時の流れと時代の趨勢、そして運のことを考えずにはいられません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?