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もう「場立ち」に戻れない~名古屋証券取引所の展示コーナーを見ながら

 様変わりです。駆け出し記者のときに見ていた証券取引所は、紙の束が机の上を覆い、株価表示ボードの黒板に手書きで数字が書き込まれていました。
 いまは立会場もコンピュータに変わり、「場立ち」のやり取りの怒鳴り声もありません。
 名古屋証券取引所(名証)は7月5日、名古屋栄の名証ビル6階に名証の歩みを振り返る資料展示コーナーを開設し、一般公開しました。

名古屋証券取引所の立ち合い風景の変遷

 早速、5階の記者クラブから足をのばして見に行きました。初代の名古屋株式取引所(1886~1889年)に始まり、株式会社名古屋株式取引所(1893~1943年)を経て、現在の株式会社名古屋証券取引所(1949年~)の歩みを示す貴重な資料約20点が展示されています。
 壁には株式市場が歩んだ年表が張られ、その時々の立ち合いの変遷を映した写真パネルもあります。
 初代創立証書には、四代目滝兵右衛門ら今も名古屋財界活動に名を連ねるご先祖さんたちの名前がありました。資料の一部は、2代目名証の創設に関わった白石半助のひ孫、白石好孝・東陽倉庫会長からの寄贈品です。
 経済取材の最初は、証券と金融です。特に証券は「経済のサツ回り」ともいえます。新人記者が最初に担当する警察回りと同じで、経済を動かす企業やその日の社会の動きを株価という側面から体感できる現場です。
 株価は一見、無機質な数字に思えますが、場立ちの人たちが積み上げた売り買いの数字は、景気や社会情勢をダイレクトに反映したものでした。
 1980年代後半ですが、当時の東京証券取引所や名証で株価が大幅に下落したことがありました。その時は社会部の遊軍、いわば「なんでも屋さん」でしたから、大学の先生に話を聞きました。
 コンピュータープログラムによる株取引が始まったころで、その影響を指摘するコメントを記事にしました。ベタ記事でしたが、その後の証券取引のオンライン化へ一気に進むさきがけのときでした。
 近年、コンピュータのトラブルで終日、取引ができなかったことがありました。2020年10月、翌日の新聞各紙の株価欄が白紙だったことは、まだ記憶にあります。
 停電ならお巡りさんが手信号で車の通行をさばけるのですが、証券市場のようにグローバルで、しかもデジタル化が浸透してしまうと、「場立ちでしのごう」ということは、もはやできません。
 だからこそ、名証の資料や古い写真は貴重なのです。
 当時の名古屋証券取引所は所在地の旧町名から「伊勢町」と呼ばれていました。東証の「兜町」、大証(大阪証券取引所)の「北浜」と比べれば、名証の取扱高は3%程度でした。
 ただ、新市場創設など工夫を続けながら、東海・北陸地方を中心に成長企業の上場を手助けする役目も果たしてきたことも期しておきたいと思います。

ガラスケースの左下にあるのが尾張七宝焼きの花瓶

 展示コーナーには、尾張七宝焼きの花瓶が飾られています。表面にあしらわれた唐草文様は「万代の繁栄」をあらわす縁起物。名古屋証券取引所が新規上場企業に贈呈している記念品です。展示コーナー公開は、「万代の繁栄」をあらためて誓う「初値」のようでもあります。 
(2022年7月6日)
 



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