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甲子園深緑編○○●●~日航機墜落の激震

 新聞記者は、いつ、どこに、どんな球が飛んでくるかわかりません。常に気が抜けない職業のひとつです。
 乗員乗客520人が命を落とした1985年8月12日。日航ジャンボ機墜落事故から36年がたちました。あのとき、甲子園球場で取材を終えた記者たちは、午後7時半頃の「日航機がレーダーから消えた」という初報を受け、テレビのニュースに釘付けになっていました。
 「長野県の山岳地帯か?」「群馬県か?」 日航123便の「迷走」そして墜落が、甲子園球児や取材陣に飛び火しました。東京・羽田から大阪・伊丹空港へ向かった便で、乗客の多くが大阪など関西圏の人たちだったのです。取材陣、特に地元大阪の記者たちの緊張が高まりました。
 甲子園取材チームは、寄りあい所帯です。大阪本社の若手記者とデスクを中心にして、東京本社や九州の主な支局からも県代表のチームを取材するため、記者十数人が派遣されてきます。中部エリアからは、若手ではないですが、30歳直前の私が愛知・東邦高校とともに甲子園入りしました。宿舎は関東の球児たちと一緒で、にぎやかでした。
 記事はそれぞれの地域版で紙面を見開いて展開されます。ゲームの筋を追う「本記」を担当記者が書き、複数の応援記者が、活躍した選手や応援団を囲み記事で紹介します。
 過酷な甲子園取材に加えて、翌日からは異例の態勢が組まれました。墜落現場の群馬県・御巣鷹山の現地や搭乗者名簿から犠牲者の名前が判明するたびに、甲子園球場に詰めている記者たちも手分けをして勤め先や自宅を訪れて、人となりを聞き、顔写真の提供をお願いしていました。
 特に大阪本社の記者たちは、昼間は甲子園、夜は犠牲者の自宅回りというスケジュール。灼熱の甲子園アルプススタンドの取材よりも、はるかに心労の多い仕事でした。 
 東京組も無関係ではありませんでした。群馬県代表の東農大二高の選手のお父さんが応援のため事故機に乗っていたのです。群馬からの派遣記者がいなかったので、1回戦を担当した別の支局の記者が張り付きました。選手の父親は元プロ野球選手でした。東農大二高は2回戦も勝ち、甲子園から全国へ記事が発信されました。
 長い球史のなかで、異例の大会でした。舞台裏の記者たちのもう一つの甲子園も歴史に刻んでおきたいと思います。
(2021年8月15日)
 〈あと文〉4回にわたる高校野球をテーマにした連載です。1回目は平和を象徴する白球に思う「白色編」。2回目は日航機が緑深き御巣鷹山に墜落した夏のエピソードをまとめた「深緑編」。3回目は甲子園大会で深紅の優勝旗を目指した球児たちの明暗を見つめた「深紅編」。最後の4回目は、球児たちがそれぞれ旅立ち、人生のメダルを目指している「空色編」です。いずれも筆者の取材体験を盛り込んでいます。若きジャーナリストのみなさまの参考になれば幸いです。(表題の色は大辞泉カラーチャート色名より)

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