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執着する事について

〜自分なりのメモ書き〜
性と罪の意識と20代の価値観

友達が女に執着を抱えている。もう一度、彼女とヤりたい様だ。

その友達は自分の性欲というモノに酷く罪の意識を持っていて、性欲を邪魔なモノだと一蹴してしまっている。

何故、人は性へ罪意識を持つのか。
それは性が自己に内包された快楽であるからだ。

他者の快楽の追求ではなく、自己の快楽にのみ焦点を当てるからこそ、後に罪の意識を感じてしまうのではないだろうか。

しかし、誰が責めるというのだろうか。
自己の快楽の追求に関して、己の事であるにも関わらず何から責められているのであろうか。

それは人が如何に仕事とプライベートで二面性を持った生き方をしても、SNSで複数のアカウントを持ち仮面を被った生き方をしても、本質的には一人の人間であり、人格であるからこそ、現実社会から縛られてしまうのではないだろうか。

では私達20代の現実とはなんなのか。
それはInstagramやTikTok、YouTubeで流れてくる人達の充実した生き方である。

稼いで、遊んで、結婚して。
生き方の一面しか見せる事のないSNSでは、人々の理想しか詰まっていない。

苦悩というものはSNSには載らないのだ。
だから苦しめられてしまう。

にも関わらず人は苦悩を解消するために、
SNSで誰かと繋がろうとする。

私が思うに辛いからこそSNSではなく、現実社会で辛さを吐き出すべきではないだろうか。

では現実とはどこにあるのか。
これが20代の私達にはないように思える。

空洞化された社会の中で如何に気軽に話す事が出来る現実を作れるかが重要だ。

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