ニコチンのこと[日記001]

嗜み程度にちびちびと喫煙をしているのだけど、最近ついにニコチンに捕まってしまったらしい。三日に一度くらいのペースで無性に吸いたくなる。もちろんタバコが身体に悪いということは百も承知である。いつの日か癌になって後悔することも折り込み済みだ。「やっぱりタバコなど吸わなければ良かった」と余命を指折り数えながらぷるぷる震えること間違いなしである。しかしどうしてもやめられない。……いや嘘だ。僕はたぶんタバコをやめると奮い立ちさえすれば、いつでもやめられるに違いない。

これまでニコチンに捕まらなかったものだから、てっきり僕はタバコを吸うのが下手くそなのだと思い込んでいた。上手に吸えていないから中毒にならないだけだ、と笑い話のネタにしていたまでである。ところが最近、そうではないらしいことが判明した。
僕はつい数ヵ月前まで就活生として活動していた。その活動の過程で、内定を貰った企業から病院での健康診断を命じられる場面があった。採用活動というものは大変なもので、せっかく人材を確保しても、単位が足りずに卒業できなかったり、健康不良でまともに働けない人材がたまに混じっているらしいのだ。そうした危機へのリスクヘッジとして、内定者には健康診断を受診させる企業が多い。
とにかく僕は病院に健康診断を受けに行ったのだ。そして一切伸びていない身長やそのわりには激増している体重にがっかりしつつ、年増の院長と面談を行った。院長の隣にはレントゲン画像の写ったパソコンが置かれている。開口一番院長は言った。
「新士くん、タバコは吸うの?」
僕は自信満々に答えた。
「月に一本程度は」
院長は笑った。僕の喫煙者としてのレベルの低さに声を出して笑った。しかし目は笑っていなかった。
「これ見て。肺のレントゲンなのだけど」
示された肺はなにやら白く靄がかかっていて、まるでヘビースモーカーの肺のようにも見えた。驚くべきことにその肺は僕の肺である。
「タバコはやめなさい。他の異常は特にありません。以上です」
そうして僕の健康診断は終わった。それから数ヵ月、僕の喫煙ペースは実に十倍以上の加速を果たした。ちなみに健康診断を受けさせてくれたその企業の内定は辞退した。

「ラッキーストライク」の切っ先を炎でくゆらせる。こう言うと馬鹿みたいな目で見られるのだけど、僕はタバコの匂いが好きだ。タバコを吸った後に口内に残る灰の匂いが好物なのだ。僕はJTが発売している電子タバコ「プルームテック」のことを考える。ニコチンは含まれているものの、タールをはじめとした有害物質がとても少ないらしいのだ。それを使えば院長の命令もいちおう順守したことになるだろう。しかし、あまりにも人気が出すぎてどこの売り場でもソールドアウト状態である。年内には手に入ればいいな、と僕は願う。「プルームテック」は優れもので、みんなが大嫌いなタバコ特有の匂いがほとんど出ない。だから室内での喫煙が可能だ。部屋が黄ばむこともないし、洗濯物はいい匂いのままだ。しかし、シャットアウトされたその匂いは僕の好物でもある。


昔話をしよう。むかしむかし、僕の父は喫煙者だった。僕を膝に抱えながらタバコをくゆらせる父。トイレに籠って喫煙を嗜む父。お陰で僕の家のトイレは消臭剤の代わりにタバコの匂いでいっぱいだった。
かっこういい言い方をすれば、副流煙は僕の最初の友達だった。
僕が六歳になった年に母が弟を妊娠した。父は願掛けとして禁煙を誓い、楽々とそれを成し遂げた。無事に弟は生まれ、僕は兄になった。家族が増えたことでマンションを変えることになり、家が少しだけ広くなった。その副産物として一人部屋が手に入った。それは単純に喜ばしいことだった。喫煙者がいなくなった家のトイレにはもうタバコの匂いがない。引っ越して以来父の膝には座っていないけれど、もう当時と同じではないことだけは分かる。今も昔も父は僕の尊敬する人物である。22歳となった僕は、タバコを吸いながら小説のアイデアを考える。僕が考えた小説の多くはタバコを吸いながら着想したものだ。作品にタバコの匂いがついていないことを願う。タバコの匂いが嫌いな人は多いのだ。スパスパ吸い散らかしながら言っても説得力がないことは分かっているけれど、たぶん僕はいつでもタバコをやめることができる。


しかし、可能不可能性と実行するかどうかは別の問題だ。
そういうものだろう。
 

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