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「『小右記』と王朝時代」より

『公卿から「愛子」を「附属」される実資』について

「『小右記』と王朝時代」はこの種の専門書かつ吉川弘文館の本にしては(!)素人にもとても読みやすく、面白い一冊だった。収録の論文はどれも(内容説明にある通り)「記主実資に多様な視点から迫」っていて新鮮だった。
今日はその中でも興味深かった『公卿から「愛子あいし」を「附属」される実資』(下向井龍彦著)について紹介。

まずここでの「附属」とは養育形態であり、元服までのある期間「愛子」を引き取り、養育することを言う。
「附属」の特徴は以下の通り。

・対象は実資と親密な公卿の庶子(7歳くらい)
・附属は「吉日」に行われる
・預ける際、実父が「附属の詞」の口上を述べ「附属の書」を手渡す
元服までには実家に返される

この幼少期の関係が成人後の親密な関係の基になる。
小右記には実資に「附属」した4例の記載がある。この時代の慣習的なものかと思ったけど、権記@摂関期DBではヒットしなかった。


① 正暦3(992)年〜/藤原文範ふみのりの子「文円ぶんえん」 実資36歳

小右記/治安3(1023)年正月17日条
「父、文範卿。先に童幼の時、階、下官に属す」
阿闍梨になっていた文円が実資邸で初めて修法をした時に記した一節。
文円は「ときどき自ら護摩を焚き、実資に対する厚意を示した」らしい。
附属解消後30年近く経っていても親密な関係が伺える。

文範は実資の48歳上で、文円は寛和2年(986)年生まれ。文範78歳の時の子である(!)。附属が文円7歳(992年)とすると当時84歳の高齢となる。
実資は正暦元(990)年7月に娘を亡くしており(母 源惟正女)、文円附属とほぼ同時期に養子資平を迎えている(実兄 懐平息)。
文円と資平はほぼ同年齢で、室町から呼び寄せた実資姉「尼君」や実資家家司により新築した小野宮東地邸で養育されていたと思われる。

文範は実資と血縁・姻戚関係でありまた実資父斉敏とも近しく、後年蔵人頭となった実資も円融院侍臣として、関白頼忠を支える近習公卿として親密な関係だった。実資にとっては仕事上のさまざまな知識を伝授された尊敬する大先輩だったに違いない。文範にとっても信頼出来る同僚の子息であり後輩であったろう。自身の高齢によって「我が手で養育することができないと自覚したとき、実資に附属したのであった」。

冒頭の小右記記載の治安3年〜長元4(1031)年までの9年間、文円は頻繁に実資家へ私的仏事奉仕を行っている。また実資も文円の病気時に見舞いの品を送るなど2者間には親密な関係が続いた。

② 長徳4(998)年〜/藤原有国の養子「家業いえなり」 実資42歳

小右記/治安3(1023)年4月11日条
「家業はの為に頗る志有る者なり。家人のごとしと謂ふべきか。有国、子息を附属する書有り」
家業は自分(僕!?)に非常に尽くしてくれる、まるで家人のようだ、父有国からの「附属の書」が今も手元にある…と感慨深げな書きぶりである。

有国は実資より15歳年長で①の文範の場合と同じく実資父斉敏と親しく有能な官人であり、実資にとっては尊敬する先輩でもあり強い信頼関係があった。
有国の娘が実資の亡室婉子女王(長徳4年9月没)の兄源憲定室になっており、実資はこの亡き妻の兄弟たちと有国の息子たち両方とも親しかった。

家業は有国の孫で正暦3(992)年生まれ。実父は有国の長男貞嗣だが、有国が大宰大弐の職にあった長徳4年死去。有国が養子としたが、自ら養育するのは困難なため実資に附属したと思われる。
附属中は尼君が「東殿」で養育していた実資実子観薬とともに養育された。

家業は長じて道長家の家司となっていたらしい。実資邸に火事があった際、道長は家業を見舞いに寄越した。道長と実資の間の連絡係のような立場だったのかもしれない。家業と実資の関係は他の3例には見られないほど親密で面白い。

治安3年十一月三日、実資養子伯耆守ほうきのかみ資頼を中傷する落書が道長邸と油水路に掲示されたことを知った家業は、即座に落書を回収し、道長の不興を買うことを承知のうえで道長に見せる前に実資の許に届け、その後、夜間こっ そり来訪して道長が不快感を抱いているから用心するよう忠告している。このような家業の態度こそ、家業の実資に対する「家人の如き」「志 」なのである。

「道長の不興を買うことを承知のうえ」で、さらにあとで予想の通りだったので「用心するよう」フォローまで抜かりない。道長家家司はあくまでも仕事だけど、実資には損得なしで尽くしている様子が伺える。

③ 寛弘2(1005)年〜/藤原公任の子「金石きんせき」(任円(良海)) 実資48歳

小右記/寛弘2(1005)年4月17日条(賀茂祭前の斎院御禊ごけいの日)
迎えに行った資平(実資養子)は金石に御禊行列を見物させてから連れ帰った。
資平によると、金石を手放す公任は「涕泣すること、雨のごとし。哀憐の甚しき、付(附)属の詞、敢へて云ふべからず」(さめざめ涕泣し、金石を手放すことが悲しくて不憫で胸がいっぱいになり、附属の口上を私に述べるときも、涙でほとんど言葉にならない様子でした)という状態だったらしい。

金石は嫡男定頼の異母弟と思われ、7歳までを公任姉遵子(皇太后宮)のもと四条宮で過ごしたようだ。
父公任はこの時40歳。実資とは従兄弟であり小野宮一門の両巨頭として強い信頼関係で結ばれていたが、この前年の寛弘元年10月に斉信に位階で先を越されて(一条天皇の松尾・平野両社行幸行事賞により従二位に)から出仕を拒否、籠居中の身だった。

失意の中、自身の手で養育する意欲と自信を失くしたことに加え、実資がこの少し前に金石と年齢の近い養子(資高、資頼)を迎えていたこともあって信頼する従兄弟に託したのだろう。ここでもに主に養育に関わったのは小右記によく登場する実資の姉「尼君」。金石は養子二人と同じく「道風手跡」を与えられともに尼君の庇護のもと勉学に励み、遊んだと思われる。

公任は寛弘2年7月21日2度目の上表でついに念願の従二位に叙せられる。この2度目の辞表提出前に実資は文案に目を通し、勅使への禄について助言した。実資の道長への取りなしも大きな力になったに違いない。

附属解消後、元服・出家した彼の姿は小右記長和2年7月11日条に見える(「仁円師<俗名当隆>」)が、その後実資実子の良円との出世争いに敗れてからあまり密ではなくなったようだ。実資邸への私的な仏事奉仕は長元5年12月3日条に「不動調伏法を修した」とあるのみである。

④ 寛弘8(1011)年〜/源経房の子「尊者そんじゃ」(実基さねもと) 実資54歳

小右記/長保4(1015)年12月22日条
「…二十六日、首服を加ふる由、今朝、伝へ聞く。件の童、下官に附属す。今、此の営ぎを聞くに、黙して何と為ん」
父経房がかつての附属子の元服を知らせてこなかった非礼に実資は不快感を覚えつつも、かつて附属した「童」のハレの日とあって義理は欠けぬと禄の用意をするところが彼らしい。

経房は先妻(有国娘)の没後わずか15ヵ月で、実資の兄 懐平娘と「通婚」した。権記「頭中将、春宮権大夫殿の姫君と密通す」(長保5.8.12) 。
これは「宮廷社会から祝福されるには早すぎた。だから密通なのである」←!!
先妻との間に定良さだよしがおり、経房か外祖父有国のもとで養育されていた。
「密通」の子である尊者は定良3歳の時に誕生し(寛弘2年3月)外祖父懐平邸で養育されていたと思われる。
附属中は2歳年下の資房(資平息)と尼君のもとでともに養育されたようだ。

経房と実資の間には他の3ケースのような親の代からの繋がりや信頼関係が薄く、先妻の舅(有国)と後妻の舅(懐平)と実資間の信頼関係によって成立してるのが面白い。尊者を実資に附属させた理由として、下向井先生は以下3つを挙げる。

  • 有国の希望
    →娘が生んだ孫定良の嫡子の地位確立のため
    実資と有国は②に書いた通り、非常に親密な関係だった。有国は寛弘8年7月死去するが、死去の前に聟経房と実資に尊者の附属(=定良の地位を脅かさない)を頼んだのでは?

  • 懐平・懐平娘(実資姪)の希望
    →実資の養育力に期待、尊者を嫡子にする意思のないことを世間に示すため
    兄懐平は実資の附属子への教育ぶりを見て来たので実資に任せておけば十分な修養が可能と考えた。そして「祝福されない結婚」で生まれた尊者を嫡子にするつもりのないことを有国と世間に示したかった。

  • 経房の希望
    →舅有国に定良の嫡子の地位を確約。宮廷社会にも尊者は嫡子ではないことを示すため。

ところが経房は有国没後1年経った頃、懐平邸を譲られそこに居住しはじめ、懐平娘が正妻として世間に認知されると実基(尊者)を嫡子として扱うようになる
定良が元服時「無位」だったのに対し、3年後に元服した実基は「五位」の元服前叙爵・童殿上だった。
「元服時のこの差別化は、嫡子の交替を宮廷社会に公然と示すものであった」
その後も、万寿4年実基が右中将に昇任時、定良は左少将だった。
(定良にはwikiすらない…)

附属の庶子の養育形態であるなら、経房と嫡男実基にとって、実資に付属されていたことは負の記憶だったのではなかろうか。
実基元服の時の経房の淡白な態度には、そういう事情が絡んでいたのであろう。

嫡子となった今、庶子だった証拠の「附属」は負の記憶…。
引き受けた実資が不快に思うのももっともだし、そういう空気があったとしたら当然、実資の尊者に対する思いも他の3例とは違ってくるだろう。
ただ、世間や約束を反故にした有国一族に対してなら「負の記憶」はわかる。
でも実資側にとっては庶子が嫡子に「格上げ」したのだから、これを機にむしろ付き合いが深くなってもおかしくないのに。
経房と実基が実資を避けがちだったのは、実資に「有国との約束を反故にしたこと」をよく思われていないと感じていたのもある?

小右記 万寿元(1024)年10月26日条には、実基が亡父経房(治安3(1023)年10月没)の周忌月に源済政の娘に「通じた」ことを「往古聞かざる不孝なり」と書いている。かつて父経房がした同様のこと(例の密通)を思い出したのかもしれない。

▶︎感想

  • 「附属」他でもあったことなんだろうか。
    下向井先生の「さらに事例をさがしてみたい」に期待。

  • 4つのケースすべて養育仲間に同年代の実資の身内の童子がいた(これも附属子を受け入れる条件?)。
    資平は自らと自らの子、2代にわたって附属子と育てられている。

  • 実資の偉大さ、懐の大きさを改めて認識。自分の身内の子の教育のついで?だけじゃなく、やっぱり次代を担う貴族の子弟を育てること自体に意義を感じたんじゃないか。

  • 何事も信頼関係が基盤なんだな!(小並感)。

  • ほぼ6年に1回受け入れてて、だいたい7〜11歳の4年間だから被ってない。

  • 文範、一応大河に出てたけど実資とのシーンなし。
    公任もだ!いくらなんでも公任との関係描かないってどうなんだ(大河感想と混同)。

  • 当時の「密通」にはそんなニュアンスがあったのか。
    ゆるゆるに見えて「通じ方」には一応ルールがあったんだな。

  • それにしても経房。。。定良の気持ちはいかに。
    大宰府で有国の亡霊に会ったんじゃないか。
    …経房、そこで亡くなったよね。。

  • 経房との距離感は俊賢と実資の関係にもよるんだろうか?
    西宮と小野宮はやはり相性がよくないのか。

  • 嫡子or非嫡子かは本人だけでなくその身内も大変だ。

  • 実資側から「附属」を持ちかけることもあったのか?
    公任の場合は身内だからその窮状を見かねてかも。
    あの涕泣は金石を手放したくないのに手放さざるを得ない自らの不甲斐なさからか。

  • 尼君の存在感がすごい。
    上記4ケースすべてで実際の養育のほとんどは尼君が担っている。
    尼君の存在あってこその「附属」システム成立だったのかも。
    尊者の後「附属」がないのは尼君が参加出来なくなったからだろうか(高齢により?)。
    ※尼君は寛仁2(1018年)3月没
    ①室町から新築の小野宮「東町」邸宅(東地邸)に移り文円養育
    ②「東殿」で実資実子観薬とともに家業養育
    ③「東地」から小野宮西隣「西宅」に移り金石養育
    ④「西殿」で尊者養育

以上、『公卿から「愛子」を「附属」される実資』をまとめてみました。
本編には実資と附属子の父親との関係などもっと詳しく書かれているので(特に文範、有国との関係が興味深い)ぜひそちらを!
「『小右記』と王朝時代」ほんとオススメです!
(COIありませんw)
4,180円は確かに買いやすいとは言えない価格ですが…公共図書館へ購入希望出すとか古書を狙うとか(小声)してでも読む価値大だと思います。

長文お読みいただきありがとうございました!


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