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濁点(3)

 父が亡くなって三年、母はよほど愛していたのだと知った。父を独り占めしようとする母は、父の心が私に向けられるたび、嫉妬からか、陰湿な行為に及んできた。それも、父にバレないよう慎重に、あまりに用心深く。

 学校への忘れ物やちょっとした無くし物に始まり、お出かけした時に迷子にされること、ぎりぎりの深爪、居留守をされて家に入れなかったり、財布にあるはずの小遣いが減っていたり、育てている花を枯らされたり――。何度も繰り返されれば嫌でも気がつく。母はなにくわぬ顔でとぼけるのも上手で、すべて私の勘違いで納められた。無駄を悟った私は、やがてなにも言わなくなり、自衛を心掛けるようになる。

 忘れるわけがない。

 だから、思い出して苦しくなるたびに、左腕の肩近くをコンパスの針で刺したこともあった。私を歪ませたのは母だ。

 私はいくつになろうとも、父の娘であり続けたらしい。

 けれども、父が死んで悲嘆にくれていた母は、年月が流れるとともに大人しくなっていった。友人らと好きに家を飛び出せるような今のこの環境が、父の存在にまさったのかもしれない。そうして今では疑う必要もなくなった。理由は別として、私の自傷はいまも尚、続いているけれど。

 私たち二人の仲はこれまで見たとおりだ。良くも悪くもなく、普通の親子としてきちんと協力し、静かに暮らしてきた。母のように散財することもなく、ときどきは働いて金を稼ぎ、余暇には自分の部屋で詩を読む。私にはそれで十分だった。

「熱いよ」とコーヒーを差し出す。

 それから私は予定通りに隅々まで掃除する。ほこり一つない部屋、カビ一つ生えていないバスルーム、髪の毛一つ絡んでいない洗面台の排水口、曇りのない鏡、シャワートイレの清潔なノズル。それらを見ると私は心底から安心できる。掃除をせずにどうして平穏な毎日を送れるというんだろう。部屋を好き放題に散らかす怠惰な人々、汚れを放置する人々、その思考が少しも理解できなかった。

 家事はちょっとした運動の代わりとしても十分だ。私の健康はここでも作られている。ダイエットと称して踊り狂うなら、もっともっと家事に力を入れればいいのに。

 時計を見ると、三時を少し過ぎていた。一時間くらいは読書ができそうだ。麦茶を入れ、ようやく自分の部屋へと戻る。ベッドと、小さな机と、本棚で私の部屋は埋まっている。部屋を飾るような推しのポスターや、ぬいぐるみや、その他の小物類といった、誰でも一つくらいは持っていそうなものすらここにはない。本だけあればそれでよかった。本棚には詩集と小説が並び、それから少しの哲学書があって、机の上にはバイロンの詩集が置かれたままだ。ベッドからは遠くてなかなか手が伸びない。それでもときどき、思い立って机に向かい、適当に開いたページを読むことはある。すると、自分が少しばかり愛を羨んでいることに気づく。でもそれは詩に浸っている時だけだから、この静かな生活を脅かすことはない。

 いつもは寝ころびながらスマホで詩集を読んでいる。読書に対する態度はこれくらいが丁度いい。でも、気に入った本は紙でも持っておきたいから書店で注文するし、ポケットに入れて公園で読むこともある。木と紙の本の親和を感じているのかもしれなかった。

 ベッドの上で読書をしているといつのまにか眠ってしまっていた、というようなことは誰でも経験していると思う。スマホの寝落ち読書で怖いのは、どうでもいい文章を勝手にハイライトしていたり、ホーム画面にアプリが追加されていたりするだけでなく、知らないあいだにアプリをアンインストールしてぜんぶ消えたという恐ろしい経験を二度もしていること。大切なデータならバックアップしていればどうということもないけれど、それでもログインしなおすのは面倒だし、管理を怠っていた昔は、パスワードが一致しないなんてこともよくあった。紙の本ならこんなことは絶対に起きない。せいぜい折れ曲がるか、涎がつくくらいだ。

 詩は好きだけれど、書いたことも書きたいと思ったこともなかった。自分で意味のある言葉を意識して生み出すのは昔から苦手だった。作文すら会話とはぜんぜん違うのだから、日記くらいがせいぜいで、それ以上のことなんてできるわけがない。

 もしも母の会話のすべてが含みを持たせた分かりにくい詩のようなものだったとするなら、とっくの昔に私の気は狂っていたはずだ。映画も詩も、そして会話も、やっぱり単純なものが楽でいい。これまで十分すぎるほど考え、疑ってきたのだから。

 左へ右へどれくらいころころしただろう。そろそろスーパーも混み始める時間だ。よいしょと体を起こし、リビングでスマホを触っている母に夕食はなにがいいかを尋ねる。

「ううん、なんでもいいわよ。まだお腹すいてないし」

 同じ時間帯に同じ質問を繰り返し同じ答えを返される。でも、こちらから提案すれば多少食指も動くのか、あれがいい、これがいいと言い始めるんだ。夕飯はいつもの夏を離れ、枝豆ご飯と大根のお味噌汁と鯖の味噌煮と小松菜のおひたしに決まった。私はまた自転車に乗る。

 二度目のスーパーこそが私の大舞台かもしれない。目的の商品をあるていどカゴに入れたあとは、店内全体への注視を交えながら歩く。観察は様々な客に向けられ、らしい挙動を待ち続けるうちに一人二人はめぼしもついた。それらは万引きの常習犯だ。もちろん店側も把握している。私に言わせれば、私服警備員も不審者と変わらなかった。二人の端役がそろったら、私は店の出入り口付近を窺える位置で、色んな野菜をゆっくりと物色している振りをする。期待通りに事が運ぶなら、やがて二人は店外へ出てゆく。それが合図だ。そして今まさに、幕は切って落とされた。


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