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大学生で失ったもの

高校のとき私はとても暗かった。いや高校のとき以外も暗かった。そう、私のセルフイメージの中の私は大体暗かった。暗くて人見知りで、受け身で、常に何かを僻んでいて、人と比較して落ち込むことが趣味だった。友達と2人のとき、大人が私の方に話しかけてこないのは暗さを全面に押し出しているからだし、友達に褒め言葉を言われたこともあるけど、みんなに気を遣わせてるか、自分でそう言われるように演じてるんだと思っていた。

引くほどにネガティブの塊だった。

コンプレックスの塊で塗り固められた自分は、大学生になったとき、いわゆる大学デビューを果たした。見た目というより、中身を。いや、変えたというより無意識に変えていた。

当時のことを振り変えれば、大学という新生活に舞い上がって、ギアを4個くらい上げてたんだろうなと思う。そんな一気にギア上げて、よくエンストしなかったなというくらいに上げていた。
人見知りを隠すための社交的な自分を演じ(もはや演じてもいなかった。)先輩にガンガン話しかけていた。授業でも友達を作るために、席が近かった子に話しかけたりもした。

昔の自分だったら閉じこもっていたところを、すべて開放にしたら、おかしな自分が出来上がった。

でもそれで得られたものは、たくさんあった。
人は自分に興味を持って話しかけてくる人を結構受け入れてくれること。
話を聞いてくれる人がいると、そこに人がいっぱい集まっていくこと。
自分が腹を割って話すと、相手も心を開いてくれることもあること。

これは人見知りで受け身な自分だったら気づけなかったことだ。あと、これをテクニックとして使ってくる人がいるということも学んだ。

仲良くなった人の言葉で助けられることも幾度もあった。

かつて高校に入学したとき、同級生に、はじめ一切目を合わせてくれなかったといわれた私も、大学で会って初めましてで仲良くなれる私も、同じ私なんだからすごい。側から見れば、まるで別人だ。

でもどれが裏でどれが表とかもなく、全部が私みたいだということにも気付いた。

嫌いな自分ばかり見て、本当の自分を探していた高校生のころのわたしは、よく考えれば楽しかったことや友達との思い出などハートフルな思い出を無きものにして、可哀想な自分にひたひたに浸っていた。「明るい部分なんて、元から無かった。私はずっと暗い性格だ。」と思っていた。

でも、過去の出来事に対する自分のピントを少しずらしてみたら、そうじゃない自分もいたみたいだった。私にとっては世紀の大発見だった。

「なんてことだ!私は明るかったのだ!」(ガガーリンか)

そう、これに気づいたのは、大学で仲良くなった明るい友達が、やや不遇な家庭環境でありながらも、あっけらかんとそのことを話すことで気づいたのだ。(明るい友達、ありがとう!)

もし、あなたの身近な人で、苦労なんてしたことがない!みたいな顔をしてる人がいたとしたら、もしかしたらその人はピントを「明るい方」に当てるのが得意なのかもしれない。と大学生の自分から、高校生の自分に伝えたいです。

僻んでないで、前向いて落ち着いていきや〜!

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