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世界猫の日

「今日は世界猫の日なんだって。知ってた?」
「セカイネコ?」
「そう。この世のはてには世界中の猫を統べる世界猫がいて、とこしえの眠りを貪っているんだ。何でも山のように巨大な猫で、その寝返りは大地を揺るがし、欠伸ひとつで嵐を巻き起すのだとか」
「災害の元兇じゃないか。一刻も早く滅ぼさないと」
「ところが世界猫にはどの国も手を出せないんだ。条約で保護されているんだって」
「ふうん、何て条約?」
 しばらく待ってみても返答はない。ぼくは諦めて質問の趣旨を変えた。「それで、今日はその世界猫をどうする日なんだ。猫の王様を崇め讃えればいいのか?」
「われわれは何もしなくていいんだよ。今日は年にただ一度、世界猫が眠りから覚め、自由を謳歌することができる日なのさ」
「平素ごろごろしているくせに、起きたら起きたで遊ぶだけか。気楽なもんだな」
「まあ、猫だからな」
「この世の涯というのはそんなに退屈なところなのか」
「そうだな、もしかしたらここよりも」
 ぼくらは同時に歎息たんそくした。見渡す限りの田畠と疎らな民家。彼方には未開の野山。カフェもない。ライヴハウスもない。映画館とは名ばかりの公民館。頼みの綱のコンビニは夜七時には閉まってしまう。文化と文明に見放されたこの村こそ、この世の涯と呼ぶに相応しいのではなかろうか。
 そんなことを考えていると、ひときわ大きな山の背後から一匹の猫が覗き込んできた。
 聞きしに勝る巨体であった。標高一千四百メートルの山をひと足で難なく跨ぎ越え、世界猫は儼然げんぜんたる佇まいでその全容をぼくらの眼前に曝け出した。
 神神しい風格を纏ってはいるものの、その外観はどう見ても配色をたがえたホルスタイン、せめて猫で表現するならば寒寒しい三毛猫といった様相である。鮮やかな青の下地に大きな緑の斑紋。その内側にはところどころ茶色のグラデーションがうかんでいる。
 これが世界か。
 初めて出場した国際大会で惨敗したアスリートのような感想をぼくがいだいているうちに、猫はもうもうと土煙を巻き上げながらこちらに向ってきた。とはいえ山をも凌ぐ長軀ちょうくである。二、三度の地響きののちにはもはや全体像が把握しきれない距離にまで迫っていた。
 たちまち村じゅうがパニックに陥った。人や動物、その他の有象無象どもが怪獣映画さながらに逃げ惑っていた。これほどの人間がこの村のどこに隠れていたのかと思えるほどの盛況ぶりだった。せっかくなのでぼくらも逃げ惑うことにした。
「話が違う。山のように、どころか、山より遙かに大きいじゃないか」
「普段は寝ているからな。横になれば山くらいのサイズだろう」
「ところでこの手の怪獣は都会に出没するものと相場が決っているんじゃないのか。ビルを薙ぎ倒すとか、タワーをへし折るとか」
「都会じゃ大勢に迷惑が掛るだろう」
「田舎だって迷惑だよ。見ろ、爺ちゃんの田んぼが雲散霧消している。国は何をしているんだ。さっさと退治してくれないと、このままじゃ村が全滅だ」
「無理だよ。さっき話しただろう、条約があるんだ」
「条約なんて気にしている場合か。国民が危殆きたいに瀕しているんだぞ。おかしいじゃないか、猫一匹の命を優先するなんて」
「仕方がないんだ。世界猫を傷つけたら全世界の猫好きを敵に廻すことになる。考えてもみろ、七十億人の怒りの矛先が一斉にこの国に向けられたらどうなるか」
「何てことだ。愛猫家はそこまで世界に蔓延っているのか」
 苦悩するぼくらをよそに、世界猫はその場にしゃがみ込んで尻尾をだらしなく揺らしながら空中の一点を見つめている。折しも夕刻。東の空には白い月がうっすらと滲んでいた。
 猫は空中に前脚を伸ばし、二度三度、虚空を搔くような仕種を見せた。月に触れようと試みていることは明らかだった。
「ボールか何かだと思っているのかな」
「今日は満月じゃないはずだけど」
「実物は球体なんだから影の具合はさしたる問題ではないのだろう」
 その実物は三十八万キロメートル先の宇宙空間にあるのだが。所詮は猫だな、とぼくが心のなかで嘲笑っていると、世界猫の爪先がクレーターを掠め、月はくるくると廻転を始めた。
 猫の気紛れに小一時間翻弄され、月は際限なく明滅を繰り返した挙句、終いには半月違いの上弦の月となって止った。
 混乱のさなかにあっても逞しく営業を続けていたコンビニの燈りが消えた。辺りが闇に包まれ、星がより鮮明になった。
 世界猫は手近な星に爪を立て、強引に夜空から引き摺り下ろした。金星だった。突如として公転周期を乱された太陽系第二惑星は自らの質量と運動エネルギーを持て余し、びくびくと震えていた。猫はそれを両足で押さえつけて極地から齧りつき、かりかりと音をたてて旨そうに貪った。四十六億年掛けて育まれたひとつの星の命が今、消えた。
 瞬く間に金星を平らげた世界猫はこれ見よがしに舌舐めずりをして、次なる獲物に狙いを定めた。流れるような所作で火星を仕留めると、今度は一撃では止めを刺さず、足先でころころと玩弄していた。
 さすがに腹に据えかね、ぼくはあらん限りの声を振り絞って叫んだ。「星を粗末にするんじゃない。元のところに返しなさい!」
 その声が届いたのか否か、猫は不服そうにごろごろどかどかずどんずどんと咽を鳴らし、手にした火星を第三宇宙速度で放り投げた。このままでは太陽系外に脱出してしまう計算になるが、ぼくの力ではどうしようもない。金星ともども諦めるほかなさそうだ。
 猫は大きな欠伸をして一帯に嵐を巻き起すと、そのまま眠りに就いてしまった。ふたつの惑星と爺ちゃんの田んぼを犠牲にして、騒動は収束を見た。
 世界猫の到来は一時的に話題にはなったが、村が栄えることはなかった。巨大すぎる図体は遠くからでもよく見えたし、近づいて寝返りにでも巻き込まれたら大ごとだ。わざわざこんな辺疆へんきょうまで足を運ぶ意義などありはしないのだ。
 世界猫は今日もこの世の涯で眠っている。

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