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「意見」て別に「人格否定」とかじゃなくてだな。

「ちきりん」さんの新刊読みました~♪

これを読んで、私が大学生くらいの頃から長らく抱えていたモヤモヤした感情が、初めてちゃんと言語化できた気がして、すごくスッキリしました。

世の中の大半の人は、
意見」ではなく「反応」しか述べていない。

そう、これでした。

そして、こんな私でさえ、今のように心臓に毛が生え、人との摩擦を恐れなくなったのは、おそらく30代に入ってからで、それまでは周囲と同様、「反応」ばかりしている人間だったと思うのです。

日本社会においては、「意見」を述べることや「議論」をすることよりも、「同調」することや「共感」することのほうが歓迎されます。だから、キャンパスに通う同級生やサークルの仲間、新卒入社時の同期など、同質性の高いコミュニティにおいては、あくまで会話は「反応」に留めることが、若い時分には孤立や疎外感を味わわずに過ごすための処世術みたいなものだったのです。

でも、心のどこかでは空虚さを覚えていたよなぁ…。だって、女子たちが集まる会話で「わかるぅ~!」って話が盛り上がっているとき、笑顔で同調しながら、「全然わからねぇ…」って思っていたんだから…(笑)

いま思えば、私は自分の心のバランスを保つために、ちゃんと逃げ道を作っていました。学生時代、わざわざアメリカやバングラディシュの留学生たちと繋がって、代々木公園で缶ビールを飲みながら、何時間も喋っていたっけ。それが私にとって癒しの時間だったのです。

2009年、新社会人になっても公園に逃げてた(笑)

彼らは心から「共感」したとき以外は、当たり前に「意見」してきます。「意見」とは、対象となる物事について、自分のポジションを明確にとることです。

「そうなんだ~」とか「わかる~」とかじゃなくて、
「自分はこう思う」「賛成」「反対」「なぜなら…」
というように、言葉が続いていく会話です。

意見」である以上、そこに「正解」はない。
それでも自分の頭で考え、ポジションをとるのです。

私は自分の人格を、言語やコミュニティによって自然に使い分けていたんだと思います。ちなみに20代の私が出逢った日本人のなかで、圧倒的に「意見」で会話ができたのは、バイト先の居酒屋のマスターでした。彼は自分のアイデンティティであるモヒカンを一生涯続けるための手段として、自分の店を持った人でした。思想はハードコア。彼との会話は実に面倒なんだけど、お互いかぶせて意見し合う時間は本当に楽しかったな…(笑)

私がバイトを卒業した日。実に懐かしい♡

意見」するには日頃から世の中の常識を疑ったり、何事にも「なぜ?」を問う思考が必要だったりするのだけど、そのような生き方は、知的好奇心を大いに刺激してくれるもので、たとえ多くの人に嫌われない人生を捨てても惜しくないほどの価値があると今では思います。

そして、意見を交わせる人との出逢いや一緒に過ごす時間は、本当に心が満たされ、かけがえのない人生を形づくってくれるギフトだと感じている今日この頃です。

最後まで読んでくれてありがとう♡

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