「インド探検」とは何か?(1)

以下の記述は、大昔、大学探検部の「部史」1995年版に記したものです。

■インド探検 India Explorationとは?

【期間及び活動概要】

 I.E.PART1 1977年10月8日~78年4月15日
 インド食生活調査行 (大衆食堂食べ歩き)
 I.E.PART2 82年1月~6月
 食の流通調査行(市場総合品目調査)
 I.E.PART3 83年2月~8月
 南インド農村生活体験
 I.E.PART4 84年1月~8月
 南インド農村生活体験
【隊員】浅野哲哉(基本的に単独行)

【趣旨及び目的】

 India Exploration(以下I.E.)そのものの目的とは何かと問われると、いまだに判然としない。
ちなみにI.E.PART1の計画書には、こう記されている。

 「食」と人間の生活…インドではその関係が究極的に凝縮され、「食=生きる」の公式が如実に現われているのではないだろうか。また、膨大なインド研究においても、この素朴で泥臭い「食」というテーマは、混沌として捉えにくいインドの文化や社会を理解する上での重要な突破口になるかも知れない。
 小生の「インド探検」とは、自らをインド世界の「具」に限りなく近づけ、あの未曾有のゴッタ煮を内側から観つめ直してみようという試みである。根本にある柱は「食」という観念であるが、それは「きょうの料理」や「お美味んぼ」の世界とは根本的に異なる。
 学生の頃は、人口爆発という神話の裏側に暗躍する多国籍企業の戦略によって引き起こされる飢えや貧困など、いわゆる食糧問題の観点から、自らをインドの貧しい人々の内側に埋没させて、彼らのために何ができるか?という問題を模索していた。
 しかし、状況はさらに切迫しつつある。今や人類の諸活動による地球環境への影響は無視できなくなってきた。
森林伐採の張本人である商社までが、「地球にやさしい」云々と声高に地球環境保護を唱え、電力会社は地球温暖化の元凶を二酸化炭素に求める仮説を盾に、原子力発電を正当化しようとしている。
 この惑星に生きるいかなる生命も、有限の大地を喰って生き延びてゆかねばならない。
お金を儲けて喰っていく以前の「根源的な喰い方」、すなわち、このちっぽけな星を舞台に展開されている土・水・火・風の「創造化育」に育まれながら、それらを活かし、あらゆる生命とともに生かし生かされあう「共存への方法」を、インド世界はありのままに提示してくれているのではなかろうか。
 以上のような観点から定義するなら、「インド探検」とは、インド世界のなにげない日常の裡に普遍的な真理や新しい価値観を探る探検的行為、もしくは探検的「旅」といえる。

【私論=インド概要】

 とても一口では言えないので、ここでは自分なりのインド観に則って述べてみよう。
 インドは森羅万象のゴッタ煮。神秘と矛盾と混沌に満ち溢れた壮大にして悠久の「カリー世界」だ。
鍋は広大な逆三角形の亜大陸。面積は日本の約19倍、ヨーロッパ諸国がすっぽり収まる。
ヒマラヤ山脈に蓋をされ、数千年の時をかけて幾多の民族・文化を、そして無数の生命をグツグツと煮込んできた。
それらはインドを「インド世界」をたらしめる貴重な「具」である。
 地球上のあらゆる要素を含んだ「具」がちりばめられているにもかかわらず、そこには「インド世界総体としての旨味」が存在する。
多様な具が醸し出す全体としての統一的な味。
インド研究者はこれを「多様性の中の統一」と表現しているが、システム論的にいうと、部分の関係性(制御されたフィードバック)が織り成す恒常性(ホメオスタシス)をはらんだ全一的なホロン・システムと捉えることができる。
 近年のヒンドゥー原理主義の台頭に伴うイスラム教徒との反目や、アッサム、カシミール、パンジャーブ、タミルなどでくすぶる民族抗争などは、このシステムに相当の「ゆらぎ」を与えている。
しかし、国家という概念を超越した「インド世界」は、ソ連を崩壊に導いた世紀末のグローバルな「ゆらぎ」さえ飲み込んで、新たな「相転移」を具現化してくれるのではないだろうか。
 さて、大航海時代をきっかけに、西欧の帝国主義に支配されてきたインドは、純粋な探検の対象というより植民地経済の犠牲になってきた。産業革命を果たした宗主国イギリスは、インド亜大陸の津々浦々までを人類学的・考古学的に詳細に調査・探検し、インドの伝統的な社会システムを容認・利用しながら、あらゆる富を骨の髄まで絞り取ってきた。
 西欧に生まれた「探検」の概念は、インドに即していえば、まさに支配する側の欲望を喚起する潤滑油に過ぎなかった。
バスコ・ダ・ガマの航海はもちろん、マルコポーロの旅も、西欧の侵略活動に情報を提供した先兵でしかなかった。
これに対して、例えば、三蔵法師の旅は、より純粋な原初的探検活動といえる。
そこには仏教を生んだ地=天竺への憧れとロマンがあった。世界のトップクラスといわれる日本の仏教関係者のインド研究もこの延長線上にあるだろう。詩聖タゴールと厚い親交を結び、哲人ヴィヴェーカーナンダを日本に招いた岡倉天心の活動や思想にも西洋の「探検」とは異質な要素を感じる。
少なくとも、高名な登山家ヒラリー卿が、聖なるガンジス河をモーターボートで遡行した行為とは根本的に合いまみえないのである。
 象徴的な言い方をすれば、我々探検部が志向する「探検」または調査・研究は、「東洋」に属するものでありたいと思う。
ただ、インドを対象とした学生探検部の活動には、山岳踏破や辺境地域・少数部族の調査、ガンジス河の河下りなどが散見されるだけで、インド社会そのものを対象に据えた活動は極めて少ない。
我が法大探検部においても、多くの先輩たちが訪れ、その魅力に取り付かれたとは思うが、単なる通過地の域を出ていなかった。
「インドは面白い。でも、あれだけ複雑怪奇なフィールドはない。しかも膨大な先達者たちの調査・研究があり、とてもたちうちできないよ」というのが正直な実感だろう。
 たしかにインドは奥が深すぎる。「インドとは何か」を問うことは、「空とは何か」を問う事にも匹敵する。
だがそんなことにひるんではいけない。まずは素朴な疑問をもって行ってみよう。
こちらの心が開かれていれば、インドは探検者の直感力や洞察力、創造力を如何なく発揮させてくれるはずだ。
なぜなら「インド世界」は、発見の可能性そのもので満たされた大海原なのだから。
つづく・・・


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