第1話「社会人1年目。山口チームに配属され、絶対に落ちることができない試験がそこにはあった」

2009年9月−−−−−


山口県、山口市。


「新山口駅」



東京から、新幹線で4時間半。
中国地方の基幹都市・広島からは、1時間もかからない。

足を踏み入れたことは、一度もなかった。

その駅名が存在することさえも、、、

知らなかった。


リクルートスーツを着込み、ネクタイの結び方もままならないまま。


いかにも社会人なりたてです、というオーラをまとう、見た目は30歳を超えているが、実際には22歳の青年。


ほとんど誰もいない駅のホーム。


新幹線が止まるが、人は少ない新山口駅のホーム


僕はこれから始まる社会人生活の、第一回目の改札を通過しようとしていた。


その時の気分といえば、


「よく分からない」が正解だった。
何が自分の身に起ころうとしているのか、ピンと来ていなかった。


言われるがままに、新山口駅に運ばれてきただけだ。



「お前は山口チームに配属する」と、
山口・島根・鳥取・岡山を含む中国地方を統括する、
広島支店の原支店長に、任命された。

それだけだった。

自分の意志、というものは、、、

なかった。


本社を東京・日本橋に置き、皮膚領域、透析領域の製品を得意とする『鳥居薬品株式会社』に僕は就職していたのだった。


MR(Medical representative=医薬品営業)として。

入社してからは、日本橋にあるホテル「東急ステイ」に住み込みし、すぐ近くにある本社との往復生活を半年間続けた。


東急ステイ日本橋

そしてようやく、自社製品研修を終え、山口チームに配属されたのだった。

まだ大学生気分が抜けていなかった。

これから、社会の厳しさを叩き込まれる日々が始まるとは知らず・・・・



改札を通ると、そこには50代の、お笑い芸人の村上ショージにどこか似ているおじさんが立っていた。

「初めまして、山口チームに配属になった荒井と申します。これから宜しくお願いします。」

「おう、よろしくな。とにかく、まずは試験に受かることからや。全力で頑張れよ!」

これからたくさんお世話になるだろう、

山口チームの、O田リーダーだ。
(鳥居薬品では、所長のことを「リーダー」をつけて呼ぶ風習がある)


試験とは、「MR認定試験」という、この仕事を行う上で、合格が必要な試験だ。

科目は、「病理・疾病」「医療法規」「添付文書」「PMS」「薬剤学」「薬理学」の6科目で、
文学部哲学科だった自分は、本気で全てが初めての単語で、慣れるまでにかなり時間がかかって、大変だった。


例えば、「尿中排泄」というものを説明した文章。

【尿細管における分泌は、輸送体によって行われる。脂溶性の高い薬物は、
尿細管で受動輸送により再吸収される。】


(尿細管?
分泌はどういうことを指している?輸送体ってなんのこと?
脂溶性の高い薬物、、、受動輸送・・・・・ってなんだマジで。。。。)

最初、本当にこんな感じだった。一文中にある、意味のわからない単語を調べて、構造を理解するのに
めちゃくちゃ時間がかかった。


しかも、最終的に、理解しきれないものも多く、でも点数は取らないといけないので、
そのまま文章を「暗記」に走った。
だから、問題は解けるようになったけど、ぶっちゃけ意味を分かっていないものも多かった。


薬学部出身や、理系出身の同期たちは皆、すんなり感覚でわかるようで、これは相当「勉強」しないと、追いつけないな、と危機感を覚えていた。


MRは皆、これにクリアし、合格しなければならない。


社内の合格率は9割、全体でも7割ぐらい。


そう聞くと、なんだ、余裕そうだな、と思われるかもしれないが、視点を変えると


「不合格が圧倒的少数派」と言い換えられる。

つまり、この試験に落ちると、社内でもかなりのバッシングを浴びることになる試験なのである。
(実際、3年目でも不合格の先輩がいて、毎回そのことをネタにされていて、大変そうだった)

だから、皆、必要以上に勉強する。そして、この合格基準は発表されていないため、
とにかく高得点を取る、ということでしか、安心感を得られない状態だった。



リーダーの車に乗せてもらい、自分がこれから住む社宅を選ばせてもらうため、山口市内の小郡という新山口駅付近の地域を回った。


初めて見た、山口という町。

それはそれは、緑が生い茂り、
山が連なり、空は広く、、、、
自然豊かで、今までの都心のホテル暮らしとのギャップがものすごく、
とにかく何もない。




この穏やかな、そして広々とした、自然あふれる、観光だったらものすごく癒される新天地で、
何が何でも合格しなければならない「勉強」の日々が始まった。


一方で、ただ毎日勉強をしていればいいわけではなく、
営業として配属されたので、当然、外回りもしながら、同時並行で行うことになる。


担当地域は、日本海に面する山口県北部の「萩市」「長門市」「美祢市」「下関市の一部(豊北町)」だった。



両サイドには緑しかない一本道の道路を毎日、ひたすら進んで行く。

住んでいる小郡は南部地域だったため、担当地域まで行くのに1時間以上は毎回かかった。
車に乗っている時間があまりにも長いため、自分で問題集を読み上げたものを録音して、時間を有効活用するためにそれを車内で流して聞いたりもした。

営業車の走行距離は、毎日少なくとも100キロ、多い時で250キロを計上し続けた。


医療機関を巡りながら、次の訪問先まで時間が空く時間は、勉強に充てていた。

場所は、「ファミレス」や「カフェ」だった。

周りに人の目があったり、ドリンクバーがあったりで、自宅よりも勉強効率が格段に上がる感覚があった。

だから、勉強のしやすい「ファミレス」「カフェ」を見つけては、そこに通いつめた。


実際によく利用した美祢市のジョイフル

しかし、あまりにも毎回勉強だけのために利用したり、長時間居座ったりしていると、


(迷惑かな?)


という余計な気遣いが生じた。


(勉強専用のカフェってないのかなぁ。。。)


漠然と、そう思いながら、それでも合格しなければいけないから、
店員さんの迷惑にならないように、様々なお店を転々とし、勉強のために利用させてもらう日々が続いた。



−−−−−そして




僕は無事、合格した。

合格通知を受け取った日のことを、今でも鮮明に覚えている。


「空って、こんなに青かったんだ。」

「花って、こんなに鮮やかな色だったんだ。」


本気で思った。

通常時よりもだいぶ色が失われた状態で、生きていたらしい。



そのくらい、試験のことが頭から離れなかった、し、運転中もずっと考えていた。


最初の、「絶対に合格する」という仕事をクリアした僕は、安堵感と共に、
次のステージに進んでいた。


いよいよMRとして、「営業」という仕事が始まる。

勉強から解放された、増えた時間は、
たくさんのドクターにこれからは会いために使い、うまく説明し、関係構築して、
新規製品を採用してもらったり、既存製品の処方量を増やしてもらうように、
自社製品の良さを全力でPRする。


そして、山口チームの戦力として、認められるような活躍をせねば。


僕の考えは、
どうせやるからには、行けるところまでいきたいというもので、
昇進願望が強かった。

なぜなら、自分の限界を決めて、そこそこの成果を目指すより、
苦労増えど、成長経験も比例させて、できる限り最大の成果を出していくスタンスの方が、
長期的な視野で見て、絶対に楽しい、と思ったからだ。しかもまだ、入社して間もない1年目だ。限界なんて決める必要がない。


責任が増える、ということはその分大変だ。
だけど、それは通常ではできない経験ができるということだ。
経験は、血となり肉となり、自分の視野を広める。

視野を広める、ということは、見えないものが見えるようになり、世界が開けていく。

その方が絶対に楽しくなる、と確信していた。

だから、今はやりの「そこそこの仕事量で緩やかに生活したい」という考えは一切なかった。(し、今もない)

MRは全員ギラついていると思っていたから、意外にも社内に昇進願望がない、という考えの人が一定数いて、驚いたのを覚えている。


(責任のあるポジションについてみたい。グロスの大きな地域を担当してみたい。 大学病院を担当してみたい。 本社でマーケティング部や、学術チームに行くのとかも面白そうだな。 はたまた、能力開発部とか、HIV専門領域とかもあるのか・・・)


実力不足の現状とは関係なく、妄想だけは膨らんでいた。


妄想を妄想だけで終わらせず、実現させるのに向けて、
僕は、次の「勉強」を始めた。


「営業力」
「コミュニケーション力」
「MRの仕事」
「仕事術」

がタイトルにつくような、ビジネス本を買いあさっては、土日や仕事終わりの空き時間を使って「勉強」を続けた。


この時に勉強した知識で、自分の軸となったものも多い。
もう8年も前のことだけど、この時の「勉強」は、今この未来に、つながっていると言える。

例えば、
「世界トップクラス営業マンのモチベーションに左右されずに結果を出す仕事術」(林正孝著)
という本の中には、


困った状態を作る方法として私がおすすめしたいのが、本を買うことである。独身の人なら月に20冊、結婚している人なら10冊でもいい。ここで間違えていけないのが、20冊を読破できるかどうかではなく買うことを優先するということだ。・・・・困った状態を作る方法として本の購入をすすめるのは、投資効率がいいからである。投資して自分にリターンがある身近なものとしては、本がいちばんだと私は思っている。

という一節が書かれていて、これが、心に残りつづけた。
未だに、自分が必要だと思った時に、本を買うのをためらわないのは、この一節が残っているからだ。

他にも、「昼メシは座って食べるな!」(市村洋文著)という本の中の一節

のんびり座って昼飯を食べている時間があるなら、一人でも多くお客さんを回れ、九時から五時まではプレー時間、俺たちはピッチの上で戦っている真っ最中なんだぞ。


これが、その当時、ガツンときた。その衝撃は、未だに残っていると思う。
レベルが上がるとそのぐらいの真剣味を持って、日々の業務効率を上げているんだな、と。

これらの勉強も、「カフェ」や「ファミレス」で行うことが多かった。

完全に、僕の中で「カフェ勉」が定着した。
山口県には、あまりカフェやファミレスが無く、行く場所は限られ、
店員には(またこいつかよ・・・)

と思われていたと思う。


どこかにいい場所はないかな、と思いつつも、とにかく今は目の前の仕事をきっちり行えるようになるために、
勉強を続けるしかない、と考えて日々を過ごしていた。


そして、、、、


この一年目、僕にとって最も大きな、一生の勉強になるような、
先輩による「荒々しい歓迎の日々」が開始されたのだった。

「勉強」しただけでは身につかない、
「体験」による学び、がそこにあり、大学生活で染み付いただらしなさを、
強制的に治療してくれるのだった。


当時9年目、MRとしては中堅であり大学病院担当の、K谷さん。
チームの中心人物であり、見た目は韓国人女子ゴルファーの「シン・ジエ」に似ていると皆からは言われていた。

声が大きく激し目の関西弁。

口癖は「アホ・ボケ・カス」の3連発。

製品知識も完璧で、仕事ができる人だった。

故に、だらしなさがあれば鬼のように厳しい。他の先輩方も厳しかったけど、群を抜いて厳しい人だった。

上下関係や挨拶、報連相がしっかりしていなければ容赦なく制裁が行われ、製品知識にも漏れがあれば徹底的に追及される。


僕は、K谷さんに鍛えていただいた。


仕事を行う上で、この1年目が、今の原点になっている。


これから社会に出て行く人がいるなら、緩いところより、大変でもめちゃくちゃ厳しい環境のところを選んだほうがいいよ、と僕は断言したい。


なぜなら、卵から孵化したひよこが、最初に見た動物を親と信じ込むように、社会人1年目の時に見た上司や社内の雰囲気が、今後の仕事のスタンダードとして根付く。

20代の努力、ハードワーキングで養った知識、経験が30代後半以降で確かな力となって、自分の身を助ける。その力は自分だけではなく人をも助けられる。

これらはよく言われることだが、こちらのサイトがうまく端的にまとめているので気になる人は見てみてほしい。

日本マイクロソフトの代表を勤めた成毛眞さんは、ついこの間まで空回りしていた人が、35歳ぐらいから急に頭角を現すのは、25歳〜35歳で、24時間仕事×365日×10セットをきちんとやった人の賜物なのだとして次のように述べています。(3)

「たとえば、水に一定量の熱をずっと加えつづけていれば、させる気がなくても、勝手に沸騰する。仕事というものもこれに似ていて、20代のうちというのはたとえ結果が出なくても、とにかくずっと仕事をしつづけてさえいれば、30代になると、自動的に沸点を迎えるのだ。」

「複雑で体系化不可能なものも、量をこなしていくことで要領を得ていく。そのために必要な時間が、25歳からの10年間なのだ。」

大企業の社員や公務員の安定した生活を選ぶのも一つの選択肢としてグッドだが、完成されていないベンチャー企業で裁量大きく様々なことにチャレンジするのも、将来の糧に必ずなる。与えられない分、取りに行くのが好きなら、むしろ飛躍的に成長できる。

エキサイティングな人生を望むなら、飛び込むといい。


当時の山口チームの雰囲気は、和やかに会話している時間も多少はあったとはいえ、基本的に皆ピリピリしていて、生ぬるい大学生活が染みついた自分からしたら、「戦場」に向かう気持ちだった。

その時の感覚は、未だに抜けきっていない。し、これからも抜けないだろう。

他のメンバーも個性派ぞろいで、僕と同じタイミングぐらいで鳥居薬品をやめて、武田薬品にハンティングされた武闘派のY下さんや、先輩への立ち回りが究極的にうますぎるF岡さん、頭の回転が早すぎて怖くなる時がある知性派のNさん、ほぼオフィス内では無言ながら6期連続予算越えを達成した神がかっているY村さんなど、


まとめるO田リーダー、後任として仙台チームからいらっしゃったS井リーダーは、それはそれは大変だったと想像される。



外回り終了後、オフィスに帰りたくなさすぎて、駐車場で30分くらい時間を使って、心を整えてから帰る、ということをしていた日もあったっけ。


今はあの厳しかった環境に身を置けたことに、振り返れば感謝しか浮かんでこない。本当に、良かったと。

(逆に、あのまま生ぬるい感覚が抜け切っていなかったとなると、恐ろしい。いつまでも感覚が利用者(お客さん)のままで、裏側にある提供者の気持ちがわからず、してもらうことに慣れ、「イタイ」20代後半を迎えていたかもしれない。)

そんな緊張感のあるチームの中に、


「よくわからないまま」、一員となり、


時には深夜まで続く

製品プレゼントレーニングや、


接待での立ち回りを


「勉強」


する日々が幕を開けたのであった。


次回に続く。


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