見出し画像

ボートレース事件 その1:加熱した母校愛

「三校ボートレース事件」

と言っても、新潟の郷土史に詳しい人でさえ、この事件の事を詳しく語れる人は少ないと思います。

私がこの「三校ボートレース事件」の事を知ったのは、今から10年と少し前。Web制作を独学で学び、とにかく実績が欲しかったところに、母校・新潟商業高校の同窓会ウェブサイトの更新管理を依頼されました。報酬は無しですが、実績が出来ると思い、引き受けました。(その2週間後には本人知らないうちに実行委員に加えられます・・)

その時手渡されたのは一冊の本。前年に創立120周年を迎え発刊した新潟商業高校が同窓会と共同で制作した「葦原120周年史」です。

もともと郷土史が好きだった私は、早速この記念誌に目を通しました。在学中、時折「伝統ある新潟商業」という言葉を聞かされていたものの、実はその歴史については全く知らなかったので、大変興味深く、一晩ほどで読み終えてしまいました。

初めて知った、新潟商業創立の経緯と、そこに関わった歴史的偉人。2度にわたる廃校の危機、、非常にドラマチックな歴史が綴られています。

追記::2022年7月15日
私自身が忘れてしまっていたのですが、在学中、生徒会の役員をされていた先輩から、生徒会室にあった記念誌を見せていただき「ボートレース事件」の事もその時読んでいたことを教え頂きました。この記事を偶然読まれた先輩からご連絡頂きました。大変失礼いたしました。…と同時に、これがきっかけで卒業以来、その先輩と交流ができるようになり、大変うれしく思っております。

その中で、特に気になったのが「三校ボートレース事件」です。

三校ボートレース事件とは

「葦原120周年史」には、三校ボートレース事件について、概ね下記のように記されていました。

1905年(明治38年)10月5日、商業学校(現・県立新潟商業高)新潟中学(現・県立新潟高校)、新潟師範学校(新潟大学教育学部の前身)が参加し「第二回 三校端艇競走會(ボートレース大会)」が開催された。商業学校が優勝したが、前回優勝の新潟中学が判定に抗議し、優勝旗を渡さなかった。県当局が事態収拾に乗り出すも収束できず、新聞は「県教育界の大失態」と見出しを躍らせ、連日この件を報道。
当時の商業学校同窓会等が独自の優勝旗を作り、11月3日に商業ボート部に進呈、ボート部員達は提灯行列を行う。新潟中学生徒はこれに刺激され衝突、数名の負傷者を出す。3日後の11月6日、新潟中学生徒約150名が商業学校を襲撃、約100名の負傷者を出した。
県会では知事の問責決議案が出されるなど、大きな影響が出た。
翌年1月4日、県が二本の優勝旗を三校に三分する旨の宣言書を出し、事件は決着した。(一部抜粋の上、再構成)

さらっと書かれてまずが「150名が襲撃」とか「100名の負傷者」とか、これはただ事ではありません。

世論が煽った“愛校心”と“対抗心”

そもそも、たかがボートレース大会の勝敗、それも全国大会とかではなく、地元の3校が参加しただけ、しかも「第2回」という、歴史も権威も無さそうな大会を巡って、ここまでの大事件に発展したのは何故か。「120周年史」にはその答えは書いてありません。

であればより詳しい資料を当たる事にしよう、と向かったのは県立図書館。「120周年史」のベースになったのは、それより20年前に刊行された「葦原百年史」。さらに闘争の相手方である県立新潟高校(新潟中学)の記念誌「青山百年史」も蔵書されています。

思った通り、この2冊の本には「三校ボートレース事件」について数ページに渡り詳しく記載されています。

両校の記念誌を元に、事件の経緯を詳しく紹介します。

問題のボートレース大会が開催される約一月前、ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結しました。しかし国民は、ロシアから賠償金が取れなかったことに強い不満を抱いていました。日比谷焼打ち事件は有名ですが、全国各地で講和反対の集会が開催されるなど、世論は騒然としていました。

また、当時はまだラジオ放送も無く、市民の娯楽も限られていました。それだけにこのボートレース大会は新潟市民の関心を集め、新聞は盛んに予想記事を載せています

新潟中学は新潟県立の(旧制)中学校第一号の名門、対する商業学校は元々小さな私学として開校した後、紆余曲折を経て県立に移管、甲種商業学校と認められ学校規模を拡大、間に女学校(現・県立新潟中央高校)を挟んでいた事もあってか、互いをライバル視し何かと競い合っていました。
それだけに、このボートレース大会はボート部の栄誉だけでなく、学校そのもののプライドを掛けたものとされて行くのです。

商業学校ボート部は市内の旅館を拠点に40日間の合宿を敢行、一般生徒は後援会を結成し差し入れを行う熱の入れようです。対する中学ボート部も同様に40日に渡る合宿を行い、この大会のために新しいボートを建造し、進水式まで挙行します。

当時はボートレースが人気スポーツであった事、さらに戦勝・講和反対といった好戦的な世相も相まって、世論は、生徒たちに「異様なまでの愛校心と対抗心」を煽ったのです。

僅差の判定、混乱、そして消えた優勝旗

いよいよ大会当日。各校のボート部員は、過剰なまでの「母校の名誉」を背負い、レースに挑みました。三校の応援団に加え見物する市民も加わり、両岸は観衆で埋め尽くされたと言われています。(商業生徒400名、中学生徒600名の殆どが応援に駆け付けたと思われるので、一般市民も合せると観衆は一千数百人を超えていたものと思われます)

大会は万代橋下流で行われ、計3回のレースを持って勝敗を決します。最終レースで商業か中学、どちらか勝った方が優勝(師範が勝てば三校同点)という場面、観客の熱気も最高潮に達します。
最終レースは中学と商業が僅差の大接戦、ゴール直前に両校の艇は急接近しながらゴールになだれ込みます。そして審判は商業の勝ちと判定を下したのです。

しかし、中学ボート部員は「ゴール直前に両校のオールが触れた」と審判に訴えました。大会規定では、オールが接触した場合は再レースとなります。

(ここから先の経緯は「葦原百年史」と「青山百年史」では若干異なります)

青山百年史(新潟中学):抗議を受け、混乱の中審判団は協議し翌日の再レースを決定した。この間に中学生徒が優勝旗を確保した。しかし翌日他の二校は現れなかった。
葦原百年史(商業):優勝旗授与式の段に入っても中学生徒の抗議がやまず険悪な空気となる。その際無鉄砲な中学生徒が優勝旗を奪い去った審判団は止む無く再レースを決定したが、商業・師範ともに拒否した。

・・・おそらく、どちらも「真実」を記しているのでしょう。どちらの立場に立つのかによって、「真実」も微妙に変わってきます。これは国対国の歴史も同じです。

なお、持ち去られた優勝旗はしばらくの間、複数の中学生徒自宅を転々としながら隠されていたようです。

二本の優勝旗

画像1

その後、商業学校・新潟中学両校間で批判の応酬が始まります。商業は、中学生徒が優勝旗を持ち去った事を「窃盗」と批判、新聞紙面を通じて優勝旗の返還を求めます。対して新潟中学も新聞紙面を通じて「再レースが行われない以上、前回優勝の新潟中学が優勝旗を持つのは当然」と反論します。

生徒同士も、相手方を「横暴」などと非難しあうようになり、教員・生徒ともに一触即発な状況となってしまいます。

県当局が仲裁に乗り出すも事態は一向に収拾しません。当然、県の面目も丸つぶれです。新聞は連日この状況を報じ、「県教育界の大失態」という見出しが紙面を飾りました。文部省にもこの事件は報告され、県会(現在の県議会)では知事の問責案が提案されるなど、県政界をも巻き込む事態となりました。

11月に入り、さらに事態は深刻化します。
商業学校の後援会や同窓や有志の市民が資金を出し合い、独自の優勝旗を作ったのです。そして天長節の日に贈呈式を挙行する事となりました。さらにそのあと、提灯行列(言わば祝勝パレード)まで計画されたのです。

優勝旗には商業の「二蛇両翼一星」の校章が大きく刺繍され、さらにボートレース大会で優勝した旨が記載されていたと言われています。

商業教員は、中学生徒を刺激しないよう提灯行列の際は優勝旗を持ち出さないように指示しました。

・・・しかし、商業生徒たちは教員の指示を破り、この優勝旗を校外に持ち出します。商業生徒達は提灯行列で優勝旗を掲げて街を練り歩きました。

中学教員の秘策

当然、この提灯行列の情報は事前に中学生徒達の耳にも入ります。

中学側では、商業学校を刺激しないようにと校内の端艇競走会に“優勝旗”を持ち出すことも自粛していました。それだけに、商業生徒の“行動”が許せなかったのです。

また、商業学校がこの日に合せて作成した絵葉書も、彼らを憤慨させました。接戦だったはずのレースの模様が、商業が大きくリードしてゴールするように描かれていたのです。

生徒達の不穏な動きを察知した中学の教員は、秘策を思いつきます。提灯行列が挙行されるその日、新潟中学では「長距離徒歩競争」を開催しました。これは23.5kmに及ぶマラソン大会。一日たっぷり走らせれば、生徒達は疲れ果ててしまい、商業が提灯行列を行っても衝突は起こさないだろう、という算段だったのです。

しかし、中学の教員達の思惑は外れてしまいます。
「憎き相手」への闘争心に燃えた中学生徒達は、マラソンの疲れをものともぜず、提灯行列の状況を偵察します。

提灯行列では、商業生徒が「負けて口惜しけりゃ石でも齧(かじ)れ」「ブタの子ブー」と、中学を嘲笑するような歌を歌っていたとも言われています。
(当時の中学校舎のすぐ近くに豚舎があったためらしい)

憤激した中学生徒達(葦原百年史には約200名、青山百年史には数名と、大幅に食い違う表記)は、その夜のうちに商業学校に押しかけ、応戦した商業生徒と乱闘になります。中学生徒は商業の優勝旗を奪おうとしたようですが、燃料用の薪を投げつけられ撤退を余儀なくされました。この時負傷者数名。

しかし、この乱闘は序章でしか無かったのです。

形勢絶望なり、注意せられよ

本懐を遂げられなかった中学生徒の不穏な空気は高まる一方。さすがにこの状況となると、中学教員も危機感を募らせます。

当初は新聞紙面を通じて非難合戦を繰り広げた両校の教員が臨時の合同会議を行うなど、対応を協議。中学教員は検事正とも対応を練ります。

そして、運命の11月6日を迎えます。

この日、新潟中学では朝から教員が上級生を講堂に集め、暴挙を行わないよう訓戒を行う予定でした。しかし、その直前に何者かが招集ラッパを鳴らし、これを聞いた下級生がぞくぞくと講堂に集まります。上級生達は教職員を講堂から締め出し「商業批判」の大演説会を行います。そして、これから商業学校へ直接抗議すると決議しました。

中学生徒達は、教員が通報しないように電話機を破壊した上で、下級生を引き連れ、約150名で商業校舎へ向かいます。途中の松林でこん棒を拾い武装し(←青山百年史がそう書いています)、海側と山側の二手に分かれて進軍していきました。(当時の商業校舎は、現在の新大歯学部付近にありました)

電話機が破壊される前、中学教員は商業学校に電話で「形勢絶望なり、注意せられよ」と電話を入れています。これを受けた商業学校では、予科生を2階に上げ本科生が校舎を警戒、制帽の巡査も待機した上で、校門を閉鎖し臨戦態勢を敷きます。

激突

商業校舎に到着した中学生徒達は、校門を破り校舎内へ入ろうとします。すると校舎2階から一斉に投石、商業生徒達は大量の石を校舎内に持ち込んでいました。中学生徒も石を投げ返し応戦、校舎の窓ガラスはことごとく割られます。双方の生徒合わせて数百人による大乱闘となりました。まさに最悪の事態です。現場に駆け付けた中学教員達が必死に説得を試みるも、この状況では手の施しようもありません。

やがて中学生徒は校門を突破し校舎内に突入、「第二の優勝旗」があると思われる講堂への侵入を試みます。

しかし商業生徒達は校内から銃剣を持ち出し、さらには硫酸の入ったビンまで投げ付けました。さすがに中学生徒も浮き足立ち、一旦退却を余儀なくされます。

葦原百年史はこの時の状況を下記のように記しています。

血に染まって倒れるものもあり、このままでは死人が出るのは必死というすさまじい有様であった。

この間約20分から30分。結局、双方合わせて80名程の負傷者を出しました。(巡査1名も負傷)
商業校舎には警官隊が駆け付け、事態を聞き付けた父兄も集まってきます。校舎内は割れた硝子破片が飛び散り、凄まじい惨状であったと新潟新聞は伝えています。

まず俺を殺してから行け!

一旦、中学校舎に引き上げた中学生徒達は、校内の銃剣を持ち出し再度商業校舎へ突撃しようとします。

この時、1人の教員が上半身裸になり、生徒達の前に立ちはだかります。ボート部顧問の児玉柿十郎教諭でした。

児玉は「銃を執るならまず俺を殺してから行け!」と生徒達を一喝、さすがの中学生徒達も圧倒されてしまい、どうにか事態は収拾します。
やがて、こちらも駆け付けた父兄に伴われて生徒達は帰宅・解散となりました。

この大乱闘はまさに前代未聞の大惨事であり、両校にとっても、県教育界にとっても、類を見ない大不祥事事件となったのです。

・・・三校ボートレース事件の概要は以上の通りです。青山百年史、葦原百年史を比べると若干の違いはあるものの、特に最後の衝突事件に関しては、記載内容はほぼ一致しています。

当然、これだけの大騒動ともなれば、生徒も含めた関係者の処分が行われます。しかし、この処分の内容こそ、この「事件」の中で最も特筆すべきものと思っています。

次回は、この乱闘に参加した生徒の声と、「県当局の名処分」についてご紹介します。

注釈:
葦原120周年史では「新潟商業」と記載されてますが、明治38年当時の校名は「新潟県立商業学校」でした。「新潟県立新潟商業学校」と改称されたのは翌年の明治39年になります。
葦原百年史の本文中には最後の大乱闘を11月5日と記載されていますが、これは11月6日の誤記です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?