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ボートレース事件 その2:悪いのは、旗だ

前回は、新潟中学・商業学校両校の生徒が大乱闘に至るまでの経緯を紹介しました。

生徒数百名の大乱闘から一夜明けました。「新潟新聞」には「中学生徒 大挙して商業学校を襲う」として、詳細が報じられます。また、東京の朝日新聞にも「学生の大闘争」との見出しで報道されるなど、この騒動は大々的に報じられます。

生徒の処分

衝突後、両校は10日間臨時休校となり、その間に生徒の処分が検討されました。その結果、中学では主導した生徒6名が放校5年生全員(66名)を無期停学、4年生以下も譴責(けんせき)・訓戒処分としました。商業学校でも停学17名本科生全員を訓戒処分となります。
形としては中学の方が“襲撃した”事になるため、より処分が重くなったようです。

※「放校」とは、退学・除籍と同等の処分とされますが、学校側が一方的に生徒を追放する事になるので、より重い処分とも言えます。

11月3日の衝突の際は、商業生徒側が提灯行列に“第二の優勝旗”を持ち出し挑発した事が原因だったため、中学生徒側に同情的な意見もあったのですが、6日の襲撃を受けて新聞も県当局も、中学側への批判一色となります。

特に、事前に生徒達の不穏な動きを察知していながら制止出来なかった中学教員に対する風当たりが強かったと言われています。

結局、新潟中学の校長と一部の教員が引責辞任となります。商業学校では、当時校長が病気療養中だったこともあり、教頭が引責を申し出たものの、これは却下されました。

無二の親友

新潟商業学校第19回卒業生 村枝義亮さんは、後にこの事件を以下のように回想しています。

小学時代、無二の親友であった男が、中学勢の急先鋒としてこちらへやってくるではないか。天のいたずらか、偶然のめぐりあわせか、彼は中学、私は商業へと別れて進学して以来の顔合わせであった。彼は私を避けるようにして別の場所であばれていた。もし他人同士であったら私は力も体格もはるかに勝っていた彼にやっつけられていただろう。互いに顔を見合っただけで二人は永遠の別れに就いた。彼は後に飛行士となり若くして殉職された。人生は儚く無情なものだと思う。(一部抜粋)

治っても包帯を取らなかった

一方、青山百年史には、負傷した新潟中学第16回卒業生 本間徳雄さんの回顧談が紹介されています。

(乱闘の後)校医の長谷川医院へ駆けつけたのが早かった為か、翌日の各新聞には重症のトップに掲げられ、東京の新聞にまで氏名を出される始末、親類や家人間には僕の株が崩落した。しかし、学校の臨時休暇も過ぎ授業が始まった際、ホータイ頭鉢巻で学校町を往来すると、上級生が敬礼してくれたり、女学校(現・県立新潟中央高校)の生徒まで振り返ると云う有様、全く小英雄気取りで癒(なお)っても当分ホータイを取らなかった様に思ふ。(一部抜粋)

・・・まさに、人生悲喜交交。
しかし、乱闘に参加した生徒達一人一人は、普通の若者・学生であった事が伝わってきます。

※現代であればこのような場合で未成年者の氏名が新聞に出る事は無いのですが、当時は平然と氏名掲載されていたそうです。もちろん、放校や停学処分を受けた生徒も新聞に名前を掲載されています。しかも、住所まて記載されていました。

優勝旗の行方

学校も県当局も、生徒の処分について悩み続けていました。県当局は、争いの原因でもあり事件の象徴ともなった、二本の優勝旗を差し出すように、両校に命じます。

中学の優勝旗(一本目の優勝旗)は、複数の生徒の自宅や下宿に、代わる代わる隠匿されていました。最後に預かっていた下宿生は、回収に訪れた生徒達に「栄光ある旗を僕の手から差し出す事は出来ぬ」と言い、「僕の留守中に屋捜ししてくれ」と、旗を残したまま部屋から出て行きます。
旗を見つけた中学生徒達は、ローソクとお神酒を供え、先輩の功績に対し謝罪します。

商業学校では(二本目の)優勝旗告別式を講堂で行います。新潟新聞はこの「告別式」の様子を下記のように報じました。

告別式は鎮痛を極め、列席者一同無限の悲哀に撲たれて唯だ暗涙を呑むのみで、一言を発するものなかりなし

・・・両校生徒の、「優勝旗」に寄せる思い、あまりに深すぎます。現代社会に生きる私達には、心底理解する事は出来ないのかもしれません。ただ、当時の生徒達は、その「旗」の中に、母校への想いの深さ、先輩達から受け継いだものの重みを感じていたのでしょう。
たとえ、過去2回しか開催していない、3校しか参加していない大会の優勝旗だとしても・・・。

優勝旗、汝等の其の罪極めて大也

県は、預かった二本の優勝旗の処分方法を検討しました。そして翌年(明治39年)1月4日、三校の校長立ち合いの元、処分方法を発表します。

簡単に言うと、二本の優勝旗を旗の部分、柄の部分をそれぞれ3つに裁断し、師範学校を含めた三校に与えるというものでした。この際、県の笠井信一事務次官は「優勝旗二旋に対す宣言書」という文書を出してきます。

その一部分が青山百年史に引用されています。

優勝旗捕はれて我手に属し処分を持つ、乃(すなわ)ち紳士学生の前に大に其の罪を糾弾し其の刑を宣言せんと欲す
一、優勝旗、汝等の本分は学生の心身を鍛錬し、品性を高め、進退の秩序、競争の作法、容儀の粛清を保ち、我学生をして武士道の常軌を脱せしめざるにあり。然るに一は旧交のおうてい篋底(きょうてい)に潜み、他の一は白昼公路を闊歩(かっぽ)する能はず、夜陰に乗じて提灯行列に加はり、倶(とも)に塁を前途有望の学生に及す。汝等自ら本分を忘れ常軌を超脱す、其の罪極めて大也

簡単にまとめると、二本の優勝旗を「汝」と擬人化した上で、

「お前たちの本来の役目は生徒達を清く正しく導く事であるのに、一方は陰に隠れて生徒達を扇動し、もう一方は夜闇に乗じて提灯行列に加わり、ともに前途有望な学生に悪影響を及ぼす大罪を犯した

と、断罪したものです。これにより、事件の罪は生徒には無く、優勝旗そのものを諸悪の根源として決着させようという、まさに「温情から出た痛快この上ない」裁定だったのです。近代の大岡裁判と言っても良いでしょう。

これを受けて、1月27日には放校処分を受けていた中学生徒6名の再入学が認められました。

三等分された旗

三等分された旗のその後について、葦原百年史には「その後焼却されたらしい」と記されているのみです。「青山百年史」によると、中学でも焼却する予定だったが「生徒の強い希望を入れて、学校で保管する事になった」ものの「商業のものは事務室の暖炉に投げ込んで焼却した」と記され、裁断された旗の写真も掲載されています。(現存するかは不明)

事件の後

こうして「三校ボートレース事件」は後始末を含めて、すべて終結しました。

とはいえ、全てが元通りとなるのはもうしばらく後になります。商業学校のボート部は、時期ははっきりしませんが程なく廃部となったようです。また、他の運動部も対外試合禁止の処分が何年か続きます。

明治44年、新潟商業学校は現在地へ移転します。ボートレース事件当時の「南山校舎」の倍以上ある広大な敷地を得たことと同時に、この時期には対外試合も解禁されるようになりました。

これを受けて部活動が活発になります。全国大会出場はもちろん、全国制覇を成し遂げる部活が続出し、新潟商業部活動の最初の黄金期を迎えました。

その後、この「闘争事件」は、「決して褒められるものでは無い」としながらも、語り継がれて行きます。しかし、21世紀にもなるとほぼ語り継がれる事は無く、忘れられた事件となっていました。

平成16年、それを蒸し返そうとする者が現れます。(←私です)

・・・「後日談」に続く

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