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カップの7の理解『苦手は克服しなくていい』

『苦手を克服する』というのは、全てにおいて必要だとは思わない。
『苦手』を『苦手』として置いておくことは別に悪い事じゃないだろう。

今年のお正月、姉と甥の3人で金毘羅さんに初日の出を観に行った。

1300段ぐらいある石段を、午前4時くらいからだったかな、息をきらし、暗闇のなか震えながら登り、なんとか山頂から初日の出を見ることが出来た。

けれどその後、階段を下りることが出来なくなってしまった。

「私を置いて先にいけ」

映画やドラマ、漫画のような台詞をはきながら、その場に立ちすくみ全く動くことができなくなった。 

実は私は高所恐怖症。

さらに言えば階段恐怖症。階段が苦手で、石段はその中でもトップクラスに苦手意識を持っている。
自認してたつもりだったけれど、普段の生活では高い場所に登ることがないから大丈夫な気になっていた。数年振りに高い場所に登ったからか、私の恐怖指数メーターは振りきっていた。『高い所』+『石段』という、私にとって最悪の組み合わせ。足が震えて眩暈までしてしまっていた。

「これ、つかまったらええよ」

姉が杖を差し出す。けれど、どちらかがこけたらと想像してしまう。そんな恐ろしい事は出来ないし、姉にこの身を任せられるとは思えなかった。

「後から行くから先行っててて!!」と半泣きで切れ気味に言う私に、そっと腕をだしてくれたのは甥だった。今年確か21か、いや20か。忘れた。その甥が「みはるちゃん掴まって」と腕を差し出してくれたのだ。

ひょろひょろとした甥ではあるけれど、やはり男女の体格差や力の差があった。甥の腕にがっしり掴まったことで安心感が生まれた。

下や景色をみると高さや空間に眩暈がする。とにかくそれを視界に入れないように甥っ子の腕をみながら一段一段ゆっくり降りる。唇を噛みしめ、騒がしい観光客がやってきたら端によけて、その人たちがいなくなるのを待ち、再び階段を下りていく。それでも怖いからふぅふぅと息を整え、時々立ち止まりすすむ。

1時間半ぐらいかかっただろうか。甥っ子のおかげで無事に階段を下りきる事ができた。ああ、怖かった。

姉が私をみて「これで克服できたね」という。正月から良かったじゃんって。

後日、地元の稲荷神社に行った時、20段もないが石段があった。
「本当に克服出来たんだろうか」と思い試しに登り降りてみたが、むしろ怖さが増していた。結局甥っ子につかまって階段を下りた。

克服どころか悪化していた。

務めている会社の階段も怖い。結構急なつくりで、本当にたまにだけど誰かが足を踏み外してこけたりもする。
今まで平気だったけれど、正月以降その階段もさらに怖くなってしまって、びくびくしながら階段を下りるようになった。

そんな日が続いてたある日、社長が「手すりを付ける」と言いだした。
入社してから9年近くたつけれど、手すりを付けよう等という事はなかったのに、ここにきて急に手すりがつくことになった。

おかげで登る時も、下りる時も怖くなくなった。手すりに触れる度「やさしい手すり」と思い嬉しくなる。

だから、苦手は無理に克服しなくていい。
克服せずとも何とかなるように物事は流れていく。

金毘羅さんにまた行く機会があるだろうけれど、そん時はまた何とかなるだろう。

苦手は克服するためにあるのではなく、もしかしたら認識するためにあるのかもしれない。
勿論苦手なジャンルを克服することで『出来ることの範囲』が広がるからチャレンジはしてみるべきだ。その結果『やっぱり苦手』なら、それは個性として受け容れて良いんだ。

その他にも私は苦手なものがわんさかある。
例えばロマンティックな演出をされることがもの凄く苦手。
それを演出しようとする相手の気持ちが嬉しくて、期待に応えたい気持ちはあるけれど、どうしたらいいのか判らなくなってしまう。
目立つことが苦手。
注目を集めることも苦手。
私がこつこつやって来てた事を、勝手に評価するように他人に知らされるの苦手。
気を遣われていると感じることも苦手。
犬も苦手。
皆と仲良くするのも苦手。他人に合わせるのも苦手。他人とうまくやるために、してない共感をするのも苦手。
人混みが苦手。おしゃれな場所も苦手。ネオン輝く場所も苦手。
あげればキリがない。いくらでも出てくる。

でもどれも克服しようとも解決しようとも思わない。だってそれが私の個性であり、大事な私の一部だから。それに全部苦手が無くなってしまったら、私たちは完璧になってしまう。そうなると『人』である意味がない。

『秀でたもの』と『そうじゃないもの』があるからこそ、それが魅力となり、補いあうように人と関わっていける。

例えば『沈黙が苦手』という人が多いと聞いた事があるけれど、私は他人が沈黙している時間、割と平気だったりする。

むしろ気をつかって話そうとされる方が苦手なので、静かに黙っててその時間を過ごす事の方が心地よい。手持ち無沙汰になるのは、単純に相性が悪いだけだと基本的に思っている。

「気を遣って無理に話さなくても良いんだ」と判ってもらえた時、お互いに『その空間の心地よさ』を感じられるのなら、それは私の得意がもたらす結果ともいえる。

そんな風にお互いの苦手と得意を補い合うって素敵なことだと思う。それを『相手にたよってるから依存』というにはあまりに暴力的過ぎる。

どうにもそこを間違えた認識になってしまって『苦手は克服しなきゃいけない』『不完全な自分は悪』『他人に頼らず自分で何とかしなきゃ』とするようになってしまったのじゃないだろうか。

その結果『出来ない事』を認識すると『自分が駄目なんだ』という意識に繋がるから、その認識すら出来ない、認識しても自己否定に繋がってしまうのではないか。

これが私のカップの7の真の解釈だ。



自分の『出来ない部分』をダメとして否定してしまうのは、なんらか外からきた価値観の理想を追い求め続けているからだ。
それを追うのをやめて「それも自分」と受入れる事なんだと思えた。その受け入れには体験と内省、そこからくる答え合わせが必要になる。『苦手』を『苦手』とするには『経験が必ず必要』とするのはこれだ。

得意があれば不得意もある。

そうやって凸凹してるからこそ、誰かとぴったりはまっていける。それは自分が出来ない事を認めることで、誰かと寄り添っていけることに繋がるのではないかと思うんだ。

2024年9月13日
カップの7の理解
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