記念日は祝うべきだろうけどさ。ってね。

今日、2月21日は私の誕生日。誕生日だからと何かあったわけもなく、ただいつも通り仕事をこなす。日常と何も変わらない日でした。年齢は言ってもいいのですが、多分誰も興味ないと思います。どうしても気になるならこっそり聞いてください。自分の年齢はすぐに出てこないので、頑張って引き算します。こんばんは、きらりんです。
誕生日をお祝いしていただいたみなさまありがとうございました。たぶん家族以外から祝われてないだろうと思ってましたが、Twitterで誕生日であることをいうと皆さん祝ってくれました。
他人の誕生日覚えるリソースにも限界ある上に、自分で誕生日公言してないから自己主張しないといけないよね。

さて、今回の自省録は記念日について。まあ色々あったけど、結局独り身の自分には記念日は縁遠いよねっていう切ない話です。

誕生日等の記念する日が日常と違いがなくなったのはいつからだろうか。家族から誕生日のお祝いをもらわなくなった時?恋人やパートナーがいない時?年を数えるのが面倒になった時?決定的な要因が特定できるものではない。
そもそも、友人から祝われるという文化で生きてこなかった。誕生日だからといっても、学校や仕事が休みとは限らない。結局、特別な日も日常と非日常の境界を彷徨っている気がする。

あれは、高校生の頃だろうか。当時、私の学校は2月下旬に期末試験と高校入試のダブルパンチが来ていた。高校入試期間中はもちろん学校が休み。勉強ばかりはしんどいので、何か普段できないことをしたい。しかし、高校生なのでお金はない。平日の休みなので、時間はある。

ここまで思考がめぐったとき、私は現実逃避のプチ旅行をしようと思い立った。お金はないので、JRの近郊区間の大回りを選択した。関西近郊区間の場合、数百円で琵琶湖一周ができる。ただし、改札は出れないので観光は不可。ただ、電車を乗り継ぎ、車窓を眺めて物思いに耽る時間だった。これが、非日常感を演出していた。窓の先には場所によって色んな顔を覗く。一時の現実逃避としては費用も安く、楽しいものだった。

結局特別な日を非日常にするかしないか決めるのは自分。他人の特別な日をお祝いしたとしても、お返しには期待しない。期待して、貰えないのはただ虚しくなるだけだ。そもそも他人の誕生日をどれ程覚えているだろうか?祝ってほしいとわがまま言うのもワガママな気がしてきた。
こういう色々な思考の紆余曲折が、自己肯定感が微妙になってるのだろうか?そこを考え出すと話が発散するので機会があるときにまた整理しておこうと思います。

次回は久々の写真録の予定です。お楽しみに。ではまた。生きて会いましょう。

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