見出し画像

例外だからね~(何が)

もうちょっとやってみても、いいんじゃね?と、思う。

(*ノートのことなんだけども)

というか、なにも考えて書いてない。考えて言ってることじゃないから、ロジカルな話というか、ロジカルに書けてもきっと嘘っぽい。

とりあえず、私はいま、感情にのまれたり、操られるようにしてことばを書いているのじゃない、と思う。数日悲しい気持ちがあるけど、これって、嫌なネガティブな感じがしない。かといって、ずっとそのまま置いてていいことでもない。悲しい等の感情は、自分で、どうにかしてやらんといかんのよね。自分に一番近いのは自分なのだから。

ノートをやってはみたけど、今のところ、マジすげー失敗だったわ~ふはふは、とほんと思ってる。笑。変な話「ノートやらないほうがいい」という気がしたというか自分はそう言ってたからね、(しばらくサボった後また始めたときにそんな声がしたのだった)すげーな自分おい。アタイはこんなにアホなのに自分はすげー。惜しいなあお前。ほんと、惜しい。アタイは自分を、惜しむ。

でも始めてしまって続けてきたところのその今は、その時とはまた事情が違うみたい。いーんじゃないの、やっといたらー。なんつうか、ビジネスやろうとしたつもりが、趣味…?みたいな。ゆるいなあ。笑…半端で、途中。

(どう失敗で、なにがいけないのか。それは以前の書いたものを振り返ると明瞭だ。もしその良くない点がなかったとしても、そうそういい結果になっていたかはナゾ。でも今よりマシだったかと思われる。)

そういえば赤瀬川ゲンペイさんも、「前衛」でとんがってたところから、「趣味」を愛して「趣味」の復権を表現していたなあ。それと何か関係あるのか?って? ない。連想とはそんな程度ですね。ただ、「趣味」なら悪いのかっていうとそんなこともないし、趣味が高じていってビジネスになっちゃう人もまたいて、ま、言葉というのはなにも、固定できないんだよね。呪いは、かけられるけど。

とこんな風に書いてきて思った。最近、絲山明子(この「イト」が全然変換が出てこなくて呪った)著「エスケイプ/アブセント」を読み返したらクソ面白かった。(もっと細かく言うと前半部分であるエスケイプが面白かったのだが…)最初読んだときは、悪くないけど…食い足りない?みたいな感想でしかなかったのに、最近読み返した時は、丁寧さが、そしてそれゆえのリアルさが、心地よくてたまらなかった。言葉だけとったらそれなりに自虐っぽいのに、暗くも無く暖かめの語り口…、こんな文章で現代アート作文もやりたいな。と唐突に思ったほどに。

軽く見えることと軽いことは全然違うのは当たり前なのだが、見えていないときはわかんないんだわ。

***

巷に雨が降るごとく、わが心にも雨が降る

を、ちょんぎって、「ちまたに雨が降る。」と、高めの癇に障る声で言い切る、太宰治のジーニアスを思う。いや、ただ、笑える。

シンプルにするのは、いいね…

あー、気が、晴れない。

もしも何事かお役に立てましたら、ぜひサポートをお願いします☆