さあ、そうなのかな、きっと、そうなのでしょ…

はい、きっと、そのとおりなのでしょう…

そうして風は吹き、過ぎ去る。


書くことは大変な事なんだなと改めて思う。でも、そうはいっても、ちょっと勘違いはしているんだろう。言葉って難しいと思う。でも、きっと、ラクだからこうして書いてしまうのだ。

つまりさ。言葉って、出すと、なんか違うし、「そうじゃ」なくなる不便なものだ。いろんな面から見たことを書くと、そのどちらも、意味が消えてしまったり、弱くなってしまうんじゃないだろうか?じゃあ、なんなのかということが、分からなくなってしまうんじゃないだろうか。わかるときもあれば、どっちつかずになってしまうこともあるんだろう。

でも時々、短く削って、磨いてシンプルを極めた言葉がそのまま、決定版みたいに入ってくることもある。それが言いたいことで、こちらもそう思うし、と、なにか自分のものではなかったイメージとひとつになったように感じることもある。

だけど、いつも、同じようにやっぱり通じなくて、がっかりで苦しい、ということもある、それは、悲しいことでもあるのかもしれない、苦痛なところもある。いろいろ文句もある、でも、いつもなんだ。だから、思った。

そういうことも、あるんだよね。

「そんなこともあるさ」って、これはもうどうしようもない決まり文句で、なんの意味もない、気がして言いたくないような陳腐な言葉なんだけど。でも、心の叫びみたいだったり、悲しい笑顔みたいだったりするような、クリシェってのも、あるのを知っている。言い方とか、声の調子とか、そういうものが、ほんの短いなんてことない言葉を、深くて力強いものにすることも、またあるみたいに。他の言葉はなにも出てこないから、決まり文句を振り絞るようなときって、ある。

自分の肩に手を置く。そして、語りかける。そういうことも、あるよ。そんな、イメージか。


まあだいたい、がっかりするし、悲しいんだけど、きっと、幾重にもそうなんだ。その重なり合いで悲しい同志打ち消し合って、まるで枯葉のように、かさかさと、水分が抜けてしまってる。風が吹いたら、飛んで行ってしまうのかな。

「そのまっくらなおおきなものを」って、賢治がうたっていたな。おおきいかわからないけど、私も、固くて黒くて、なんなのかわからない、壁みたいなものを感じる。それってあるんだ。どうしても、あるし、あったんだ。

なにか言う前から、もっとそれでもと言葉を準備し、理解を期待するまえから、どうして、こんなに疲れてしまうのか。すごく虚しくて疲れるから、次の言葉を言う気が失せてしまいがちだ。こういうことが、何度も何度もあったんだと思う。同じ繰り返しは、やっぱり、人を絶望させる。


苦しんでいる問題があるとして、自分を、捨てる時、捨てない時ということをふと考えた。

もしずっと、(思いに反して)自分を捨ててきたなら、捨てない。

自分を常に強く持っていて、捨てたりしたことは無かったなら、捨てる。

ということをしたらいいんじゃないかと思う。それが、違いになるわけだから、同じ繰り返しには、ならないのかもしれないから。

違う風に受け止められたり、誤解されたり、果てはこちらの考えはこうと決めつけられたりするのって、苦痛だけれども、そういうことはよくあることでもある。自分も誰かにしてしまうことでもある。しようがない、と思うんだ。











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