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説明のない記録

5月はいろいろ、心境に変化のあった月だった。

まず、ノートに何かしら書き、それを投稿するということに慣れた。
だから「スキ」によって振り回される気持ちが急に大幅に、消えた。もちろん誰かが読んでくれて、ちょっとでも、いいと思ってくれた、
ということは 飛び切りうれしい(笑)んだけど、そのうれしいという感情と、自分の行動は別だと腑に落ちたところがあった。これがあんまり行き過ぎても良くはないんだろう。
とにかくそういう落ち着きを感じられて良かった。

それから、先日、19日に書いた日記で、自分で自分を感じられた時間があったことについて書いてみた。
「あの感じ」を思い出したり、その続きの感覚の中にあるとき、私には自身がどんどん明確に感じられていくと思えた。そしてそういう感じを得られるアクトは知る限りほかには無いのだった。楽しいなと 思えるアクティビティはいろいろあっても、あの感じw...としかいえないので、もどかしいが、それを 感じられる行為。それが何かは書かないが、別にポイントでない。(またもし書くなら有料で書きたいw)




例えば心に棘が刺さっているような、不安、苦痛や、自分を責めてしまう気持ち等々があったとして、その原因になるものも、情報や言葉等であることが多い。それらの存在、価値が変わるということではないが、囚われているとき、おそらく人は、自分を失い、忘れてしまっている。囚われがふと解けているとき、自分が生きている、自分を生きている感じのなかにある。
そのとき。棘が無くなったということではないとしても、私はそれを、我から離れたものとして感じている。
棘のことを特に集中して考えてしまう、というわけでもない。それはいろんなもののひとつとしてある、だけになる。

それからというもの、説明する必要もないんだな、と度々、思っている。説明がなければならないとどこかで思ってしまっていたんだけど。
長らく、わかってもらうことが、必要なんだと思ってしまっていたようだった。でもそれさえも勘違いだった、と感じたのだ。

「ひとの期待に応える だけの生き方はもうやめる」と宇多田ヒカルが歌っている…。
この一節が何度、ふと脳裏に浮上してきたことか。ここしばらくの期間かなり頻繁に出てきては消えていく(笑)んだが、それ(*良いものであれ悪いものであれ、期待に応えないこと)って言うほど簡単なことではないし、
わかることと、よくわかることと、深く知っていることと、それができる、そうしている、ことはそれぞれ違う。
それが簡単じゃないのは、ある期間の自分が「ひとの期待に応え」ているだけ、ということに気づいていないこともよくあるから。

気づかないとやめられないが、やめないと気づかないこともある。たまたま無意識にやめることができていたとき、急にいろんなことがばばっと分かってきたりする。(*正直、もう、後退したくない。とくに、悪い期待は呪いにかけられているのと同じことだ。ずっとパフォーマンス落とされてるか、要は邪魔されているわけなので、やはりそういう、身の回りの広告なども含めあらゆるところからやってくる様々なスタイルの「呪い」あるいは洗脳について、時間を無駄にされ許せない!と思ってしまうし、時に強い怒りを感じてしまう。怒るのも勿体ないが...)

例えば、いつも、「ん~…そうじゃないんだけどな」という反応を返してくる人と話す機会が一杯あるとする。
そういうことって、ずっと繰り返されるので、そのせいでひとつひとつは大したことでないように思われることでも、(何度も繰り返されることで)びっくりするくらい、頭に来たり苦しい状態に落ちたりする所以になる。
いっそ厭世的にもなる。

そういう時、たとえ相手の勘違いを明晰に指摘できて、自分は自分で何かしらあっぱれ議論で証明、できたとしても、それも、ある視点からは、小さくてどうでもいいこと、だ。
そんなことで幾分すっきりしたり、「言ってやった」と思えたからって、なんなのか。

やむを得ず反撃が必要な場合もあると思うんだが、そういう時間って求めていない。だってそんなに心底満足するようなことだろうか?もし、今日が自分にとって、最後の一日だったとして?ぶっちゃけ、誰かと議論して過ごしたくないな、それはまた、別の話かもしれなくても。

徒労を果てしなく繰り返し、やっと何か最低限の小さな部分的なことが通じたと思うような、そういうことが、そんなに、大事だろうか。
なんでもない、わけではないけど?私にとっては違うんだなと思った。ちっぽけだから、リターンがわずかなもの過ぎるから、だからつまらないとか、だからだめなんじゃないんだけど。
でもそういうヤットノコトなんて、すぐ、紛れてしまうんだよ。(その虚しさももう充分すぎるほどに味わったな。)

例えば勝ち負けにこだわっている人がいるとする。本人は、勝ち負けにこだわっているだけで、会話しようとしているわけではない、ということがわかっていない、こちらは、話がしたくてなにか言ったのに、向こうは、「俺は・私は」もっと知っている、こんなことも知っている、という主張だったり証明だったりに終始して、「えっと…」そういうことだったのかな、と思うことがある。

例えばそもそも私は、別に「こういうことを知っている私はイケている」ということが言いたかったのではなく、「こういうこと」が起きていて実に問題なんだと云いたかったのに、まったく思いもよらなかった「私は(こうでああでこんなにも)イケている」合戦になってしまう…という、過去いろんなところでぶち当たった、失望の場面を思い出した(親戚のおばさんとかおじさんとの会話の場面などに非常によくありストレスである)

実際にこれまでに、幅広い人々との間でそんなことは起きた。これは、私のものの言い方の中に、向こうがムッとするような、なにか見過ごせない夾雑物があって、そこに相手が強く反応してしまうということも、あるかもしれない。
だがそれだけではなく、それだけ競争に根っから浸食されて生きているのが我々だからとも云える。死活問題だったりするので、ある意味仕方ないのだ。

いやでもね、だから。いっそあなたがイケている、よほどイケているってことで構わないしそうだろうよと薄々思ってもいる、むしろ自分はダメダメと思っているし(とはいえダメとかダメじゃないとかいうことまでもすでに期待に応えてる感はあるw)
でも何より、そういうことがポイントじゃなかった、自分が言いたかったのは…だけどきっとキミには、どうでもいいことでしたね。いつも、寂しさの手前に立たされ孤立感だけ感じて、言葉を失ってしまう。(結局敵意はそれ自体が分断なのだから。)

しかしきっとそんな自分は、何かを外に期待しすぎだったんだな。そもそもはそういう人間じゃなかったけど、外に何か期待してしまうときも、生きていたらあると思う。そんな風でありたくなかったけれど、ずっと、迷いの中に居続けてしまうというような状態が。

そして、これは自分の悪いところかもしれないけど、やっぱり「悪い」とも想えなくて、一度「あの感覚」に至ってしまうと、別に何かを頑張って言わなくてもいいんだ、なにも、説明も言い訳めいたことも。それだって囚われだったと思い、そして何も言わなくなってしまう。
言うこと自体に興味をうしなってしまうのだ。

説明やら言い訳やらの言葉を重ねたって、それは別に楽しいこととは違うし、だいたいなにかの認可が必要っていうわけでもなかったのだし。

次の話に移ろう、本題に、入ろう、いい加減、そういうことだと、思った。

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