かつての今
目的はわからないけれど、わたしはこれから先、この瞬間を文章に書くことがあるだろう。泣きじゃくりながらもこんなことを考えるものなんだな、と思っていることも含めて、鮮烈におぼえているだろう。そして、言葉にするだろう。
映画館のスクリーンには、草原を駆け出す小さな女の子の足元が映っていた。地面を蹴り出す音だけが響いていた。川辺の石を持ち上げて、なにか生き物を探しているのかもしれない。水の流れる音がした。石と石のぶつかる音がした。
女の子の母親は、「あらゆる詳細を心に刻んでいる」。自分の娘を失うことをまだ、知っている。すでに、覚えている。だから。
病室のベットで仰向けになった父親の左腕に、眉間も鼻も口も顎もおしつけて、わたしは何を示したいのだろう。みんなが悲しい。それでも、わたしはここにいる誰よりも強く泣くことで示したい。何を、だろう。
そういえばただ、こんなにも父親の腕の形状を克明に知ったのははじめてで、自分の腕の雰囲気と似ているような気がする。脈絡のない、知覚。
人は言語によって、「事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する」。だが、この映画に現れる母親は、時制をもたない未知の言語を理解していくことで、「あらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する」ようになっていく。
母親に言語を授けた存在はヘプタポッドと呼ばれる。ヘプタポッドは、「伝達のために言語を用いるのではなく、現実化するために言語を用いる。どんな対話においてもそこで言われることをヘプタポッドたちがすでに知っているのはたしかだが、その知識が真実であるためには、現に対話がなされなくてはならないのだ。」
悲しいのではない、と示したい。ただ、このあとはもう触れることができないから、涙でも鼻水でも、とにかくわたしを持っていってほしい。そう思いながら、父親の腕にしがみついている。いや、しがみついていた。
※ 映画とは、『メッセージ』(2017年 監督ドゥニ・ヴィルヌーブ)、「」内引用はすべて、『あなたの人生の物語』(2003年ハヤカワ文庫 テッド・チャン著 表題作訳は公手成幸)から。
関根ひかり