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「Ghost of Tsushima」と「強い女」とフェミニズム

 2020年7月17日にリリースされたオープンワールド時代劇アクションゲーム「Ghost of Tsushima」は発売後3日間で全世界での売り上げが240万本を突破するという大ヒット作品となりました。
 私も先日ようやくメインストーリーをクリアしましたが、テーマである主人公『境井仁』の戦いと葛藤の他にも、彼を取り巻く女たちの、蒙古の侵略の脅威にさらされる中、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかのハードな世界に生きるそれぞれの姿が実に印象的だったため、フェミニズムと絡めて書いていきたいと思います。


※以下、ゲームに関するネタバレを含みます。ご注意ください

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物語を彩る女たち

 この物語において主人公『境井仁』にとって重要な役割を持つ女性キャラクラーは以下の4人。

瀕死の仁を戦場から助け、弟を救出する見返りに蒙古征伐に手を貸す野盗『ゆな』

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夫と息子を蒙古に殺され、また、戦の混乱に乗じ襲ってきた賊に残った家族も皆殺しにされた武家の女房『安達政子』

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境井家の当主(仁の父)が故人となった後も境井家をひっそりと守り続ける仁の乳母『百合』

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弓の才を見込まれ、津島一の弓取り『石川』の弟子となるが、これを裏切り蒙古に加担し、同胞であったはずの対馬の民も容赦なく殺戮する『巴』

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誰が最も「フェミニズム的」な女性か?

 このゲームではオープニング及びチュートリアルである小茂田の浜の戦いで武士は主人公『境井仁』とその叔父であり地頭の『志村』を除き全員戦死しており、そのため、女である彼女達も否応なしに戦いに巻き込まれることとなります。

 そこで当記事のテーマに戻りますが、当然この時代にフェミニストはいませんので、あくまで「フェミニズム的か」の観点で女性達を見ていこうと思います。

 では、『ゆな』『安達政子』『百合』『巴』のうち誰が最もフェミニズム的な強い女性か?


 これは圧倒的に『巴』なのです。


 ゲーム内では蒙古に降り非道の限りを尽くしていた彼女がなぜ?
 それをこれから説明したいと思います。



家父長制と性の自己決定権

 まずはじめに、ここでのフェミニズムとは「家父長制及び家族制度から女性を解放し、性の自己決定権を手に入れる思想」とさせていただきます。

 「え?フェミニズムって男女平等じゃないの?」と思う方もいらっしゃるでしょうが、現代フェミニズムの究極的な目標が「家父長制の打倒」「性の自己決定権」であることは事実であり、例えば第二波フェミニズムに大きな影響を与えたアメリカの著名フェミニストであるケイト・ミレットは以下のように主張しています。

ミレットは、家父長制の起源を問題視し、性差に基づいた抑圧は、政治的であると同時に文化的なものであると主張し、伝統的な家族を解体していくことが、真の性の革命への鍵であると提唱した


 なお、『家父長制』の定義としては支配形態や家族形態そのものを示すPatriarchalismと、家父長である男性が権力者であることを示すPatriarchyがありますが、ここでは主にPatriarchyを指します。

家父長制(Patriarchy)
男性による女性の支配形態、性別の権力関係を指し、フェミニズムの中心概念です。男性中心社会・男性優位社会を維持するために不可欠な権力形態、と言い換えることができます。

 家父長制とは、まず『家』が主体であり、その中で年長の男性を家父長というリーダーとして、跡取りと定められた年少の男性に引き継ぐことが最重視されるという、男系が中心となる家族制度およびそれを前提とする社会です。

 そこでは『家』のために、親が決めた顔も知らぬ男性に嫁ぐことも当たり前で、恋愛結婚は非常にハードルが高いものでした。また、嫁いだ女性に期待される役割は、跡継ぎを生み、内助の功として夫を盛り立て、夫の両親に尽くすことでした。

 この制度下では男性側にもそれなりの責任や自制が求められていたため、すべてが悪であったとは私は思いませんが、少なくとも家庭外における女性の権利や個人の自由は非常に制限されていたのは事実と言えるでしょう。

 フェミニズムはこの家父長制を男性が女性を支配するための構造であるとし、それを破壊することで女性を解放しようという意思を持っています。『家』のために己を犠牲にして親が決めた男に嫁ぎ、『家』のために子を作り、『家』のために男が求める母親としての役割をこなすのではなく、『自分』のために自分の感性で選んだ男の子を産み、『自分』のやりたいことをやる。それがフェミニズムの求める自由であり性の自己決定権なのです。

 そして急進的なそれは、結婚制度という『契約』に伴う貞操などの概念も「女性を男性中心社会である家や共同体」に縛り付けるためのものだとみなします。

 例えば日本の代表的なフェミニストである上野千鶴子氏は以下のような発言をしています。

 私はフェミニズムが男との平等を求める思想である以上に、自由を求める思想だと思っています。平等より、私は自由がほしかった。性的な身体の自由はとりわけ重要なものだと思っています。それを結婚によって手放すなんて、考えただけで恐ろしいくらいです。
[プレジデントオンラインのインタビューより]

 これらの発言は一般的な感覚からすれば「とんでもなく不実で破廉恥」になるかもしれませんが、アンチ家父長制であるという観点では「結婚制度及びそれに付随する倫理や道徳といったものは男が女を支配して共同体を維持するためのつまらない教えに過ぎず、女性はそんなものに縛られてはいけない」という主張として一貫しています。

※例えば、日本にはかつて姦通罪という、いわゆる不倫の中でも有夫の女性のみが処罰の対象になるという罪がありました(1947年に廃止)。

 つまり、フェミニズムとは女性は共同体の構成員や男性の所有物ではなく「ひとつの個体」であると強く主張するものであり、その意思や奔放さを全肯定するもので、結婚制度や貞淑さ、恩や義理といった概念すら「男が女を自分に縛り付けるための身勝手なものに過ぎない」と見做します。

 また、「中絶は女性の権利」というのもフェミニズムでは重要なテーマですが、これも家や共同体の構成員として「周囲に祝福される良い子供を産む」ことが女性に期待されているという面があると思います。

 「性の自己決定権」とは、そういったあらゆる「男性道徳」に縛られずに女性が自分の感覚と意思を重視して生殖対象を決定することであり、フェミニストの求める自由とは、それを阻害する男性主義的な規範を破壊した先にあるのです。


『自由な女』とは

 先ほど述べたように、フェミニズムは家父長制や家族制度、また、責任や義理といった男性が作った道徳や社会規範、あるいは共同体ですら、男が女を縛り付けるためのものだと否定します。

 『ゆな』は混乱した対馬から弟を連れて逃げ出すことを願う、かなり自由な女ですが、弟の『たか』を救った仁に恩義を感じて協力します。家族や義理に縛られていると言えるでしょう。

 『安達政子』は男勝りの気性や武技を有する、一般的な尺度ではまさしく強い女性です。しかし、武家の女房として仇討ちにこだわり、また「私は安達家の女」というのが彼女のアイデンティティなので、男性道徳の中に取り込まれている存在であり、実はフェミニズム的な強さからは遠い存在です。

 『百合』は仁の乳母としてまさしく良妻賢母といった性格であり、また彼女は自身が仁の父を密かに思慕していたことを「浅ましい女」と自己評価していたため、フェミニズムの求める自由からは最も遠い人物と言えるでしょう。

 一方、『巴』は師である『石川』への恩や義理に縛られず、また「同胞である対馬の民」といった共同体の道徳にも縛られない。ただ自らの才を誇示し、自分にとって利があると思えば蒙古側に躊躇いなく、そのためには同胞である対馬の民を手にかけることも厭わない。

 『巴』は恩や義理や同胞意識などの男性道徳には縛られない、まさしく自由な女であり、「恩知らず」「裏切り者」などといった言葉は弓取りである彼女にとってはまさしく『的外れ』なのでしょう。

 しかし、彼女はやがてその自由の代償を払うことになります。


なぜ巴は『強い女』なのか?

 巴の弓術を吸収しきったと判断した蒙古は、既に用済みと判断して彼女を始末することを考えます。仁は道中で蒙古に追われる彼女と出会い、彼女の隠れ家に行くことになるが、その際に巴は仁に「泊まっていってよ」と嘆願します。はっきりとは示されませんが、男女の関係を意識した言葉でしょう。

 かつて「持てる技すべてをお教えいたします」「対馬が落ちた暁には石川と境井の首をお届けしましょう」と侵略者である蒙古に媚びていた巴が、裏切られた後、今度は女の武器で仁に寄りかかろうとする。

 安達政子や百合のような、男性道徳の内にいる人物からすれば、まさしく「浅ましい」振る舞いなのでしょう。しかし巴はそもそも「自由な女」です。

 上野千鶴子氏は著書『女遊び』の中でこう述べています。 

 男たちは他の男たちと争いを起こして、自分の女たちを守っているだけである。「守られて」みなければ、敵の方がもっと「いい男」かもしれないのだ。

 つまり、フェミニズムにおいては「男性が自国の女性を守っているのだから女性は自国に尽くすべき」という主張は男の身勝手であり、女性は勝者である『より優れた遺伝子を持つ男』を愛せばよいだけなのです。

 確かに、戦争で勝った国の男性に敗戦国の女性がラブコールを送る姿というのは古来から観測されるものであり、日本においても「パンパン」と呼ばれた街娼たちは特に有名です。

パンパンとは、第二次世界大戦後の混乱期の日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街頭の私娼(街娼)である。

 また、占領下で米兵と結婚した女性は約50000人にのぼり、「戦争花嫁」と呼ばれた女性達や

「アメリカ人の男性たちは たくましく 楽天的に見えました とても魅力的でしたね」

 その他、マッカーサー元帥に「あなたの子どもを生みたい」という手紙を送った女性が何人もいたというエピソードもあったようです。

占領中にGⅡ(情報部)の翻訳通訳部隊に所属していたカンサス大学の歴史学教授は、マッカーサーと“ファザー・チャイルド・レリーションシップ”を持ちたいという日本女性からの手紙を何百通も翻訳した。そのなかには、「あなたの子どもを生みたい」とはっきり書いてあるものもたくさんあったという。

 負けた側の日本男性にとっては屈辱的であるが、これが人類が古来から繰り返してきた淘汰の形であり、ヒトという種にとってはむしろ当たり前のことなのでしょう。

 本作における侵略者である蒙古も、一時は世界中に領土を広げ、その際に占領した国の女性と子を生してきました。現代でも世界で1,600万人がチンギス・ハンの直系の子孫であると言われており、また研究によれば、現在のアジア人男性の約4割がチンギス・ハンを含む11人の"偉大な父"のいずれかの血脈を受け継いでいるといいます。

 つまり、女性は勝利した侵略者の子を残すことで勝利者の一員となれる性別であり、「男性が女性を守らねば殺されてしまう」というのは男の身勝手な言い分で、女性の自由を追求するフェミニズムはナショナリズムすら「女性を閉じ込める檻」と見做すのです。

 上記の観点から、巴はすがすがしい程にフェミニズム的な自由を体現した、男性道徳に左右されない強さを持つ、まさに「自由な女」だと評価したいと思います。

 そして巴はその後、石川と仁を利用して自らを裏切った蒙古への復讐を果たし、対馬でのアイデンティティだった弓すらもあっさりと捨て、身ひとつの「一人の女」として本土へと渡る。

 その姿はまさに女性のしたたかさを体現しているように思えました。


あとがき

 私は行き過ぎた個人自由主義やフェミニズムに反発し、家父長制やパターナリズムの利点を見直すべきという保守派アンチフェミニストですが、武家社会という家父長制そのものでできている世界の中で、既存の道徳に縛られず、己の欲求を疑うこともなく、生きたいように生きた『巴』の姿に、昨今の表現作品におけるポリティカルコレクトネスによってエンパワメントされた女性達とはまた違う、フェミニズムを体現するかような生々しい『強い女』、そして女性の生命力を垣間見ることができ、改めてゲームという表現の懐の深さを感じました。

 美しい風景や剣戟の迫力もさることながら、登場人物たちの心の機微や生き様、美意識といった精神面の描写もまた印象的であり、海外のゲームスタジオがこんなにも日本文化へのリスペクトに溢れた素晴らしい作品を提供してくれたことには驚きしかありません。
 私はこのnote記事が初投稿となりますが、執筆のきっかけをくれたSucker Punch Productions(サッカーパンチプロダクションズ)に感謝します。


(8/8 追記)

続編を書きましたので、よろしければこちらもご覧ください!



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