見出し画像

♪コンテスト参加エッセイ 【タイトルは『僕は負けない』だったかな?】

遠い日に目にしたのか、あるいは耳に届いたのか?
『人生はROAD MOVIE』
解説するのは難しいけれど、すごくよくわかる気がする一節です。
 
私がこの世に生命を授かる少し前、テレビが一般的に普及する以前、

*映画は大衆娯楽の王様

幼い頃の周囲の人たちも、映画は身近かつ、少し特別な存在だったと記憶しています。
 
ところが物ごころに目覚め、日々少しずつ子ども目線で世の中を捉え始めた私は、
 
映画なんて観たこともないけどキライだ。
映画があるから、ボクは仲間の輪に入りたくても入れないんだ。

 
声にする度胸すらありませんでしたが、これが当時の心の叫びでした。
 
 
映画ファンの読者各位が、早くも眉間にしわを寄せていらっしゃるであろうこと、重々承知しています。
いきなりネガティブな始まりで申し訳ありませんが、私の綴る物語には基本、バッドエンドはありません。
 
#映画にまつわる思い出
 
時を昭和40年代前半、すなわち1960年代後半まで巻き戻すところから、お付き合いいただければ幸いです。
 
 
 
<昭和40年代前半>
 
平成~令和の時代であれば、
 
*DV実父&ネグレクト実母、それぞれグレーゾーン?
 
裕福とはいえずとも、決して貧しくはなかった我が家。
そこから目と鼻の距離の、父方の祖父母宅で暮らしていた、幼い頃の私。
祖父母は今にして思えば、度を過ぎた長男教。
大勢の実子を差し置き、長兄である私の実父だけを過庇護溺愛していたようでした。
 
以上をヒントに当時の私の生活環境をご想像いただくのは、もしかすれば若い世代には難題でしょうか?

錆びた生温かさなど何するものぞ。
公設公園の工業用水(?)で喉を潤す子どもたちが走り回っていた、
そんなモノクロ時代のお話です。


荒っぽい長屋街に不似合いな、立派なアーケードが数百メートル続く商店街。
当時は駅前にひとつ、商店街の中央付近にひとつ、そして反対側に抜けた少し先には、成人映画専門の怪しい劇場がひとつ。
直線距離数百メートル内に、複数の映画館が点在していました。
強引にたとえるなら、映画スタジオを模倣した、USJの建物みたいな感じ?
 

駅前の区画整理は半端なく、道路自体が敷き直されて久しく。
大映系列の映画館、この辺りだったかと?
シャッター街化が止まらぬ、歴史あるアーケード商店街。
東映系の映画館は間違いなく、この位置でした。
昭和の思春期男女の動悸をアップさせた成人指定映画館は、おそらくこの辺りだったかと?


もちろん指定席もなければ入れ替え制でもなく、1度入館すれば終日遊べました。
小学校低学年の子どもたちにとって、映画館の扉はそのまま、大人の世界の扉。
地域密着型だったらしく、全国ロードショーのスケジュールなど我関せず。
子ども向けのアニメや特撮など、自館系列の作品をランダムに上映していたと記憶しています。
 
駅前は大映系で、商店街中央が東映系。
子どもたちが興味津々の残る1館の上映については、銭湯の脱衣場の天井からスクロール上に吊り下げらえた告知で確認。
『白日夢・団地妻の淫靡な喘ぎ』など、まだ学校で習っていない、読み書きの難易度高が目についたような?

ホント、こんなのが天井寄りの壁に、大きく貼り出されていました。
この男性の表情と目線!


この怪しすぎる映画館の名称、
『◆◆(町名)アカデミー劇場』
だったような?

"academy" の日本語彙、この半世紀で変化したのかな?
 
おっと……軌道修正しましょう。
 

こんな書籍が出版されているみたいです。
著者(敬称略)の情熱、少しだけわかる気がします。


悪天候の土日など、同級生たちは親から小遣いをもらい、それを握りしめて映画館で現地集合。
スマホ(携帯)など影も形もないどころか、自宅の固定(黒)電話の普及率も十分とはいえなかった時代です。
「退屈したなら映画館に行けば、誰かに会える」
同時期に地主さんが運営していた私営プールと同じく、これが暗黙の了解でした。
 
お気づきですね?
 
上記の環境で暮らす私には、そのようなお小遣いなど望めませんでした。
明治生まれで地方の郡部(漁村)育ちの祖父母には、
『昭和40年代の子どもは、お小遣いがなければ友達の輪の中に入れない』
これが感覚的に理解できなかったのでしょう。
 
山で昆虫を追い、素っ裸で海に飛び込み水遊びして、魚獲って帰ればよし!
 
おやつこそ与えてもらえましたが、おけいこ事や自由になるお金など、意識を向けてはもらえませんでした。
さらに当時の祖父母宅には電話もなく、近所のタバコ屋で呼び出し。
学校が配布する、ザラ紙に活版印刷された個人情報の塊(=全校生徒名簿)の電話蘭には、遠慮する素振りもなく(呼)印が。
 
今一度……若い読者各位、ついてこられていますか?
 
 
前を通り過ぎることも、その場で足を止めることも、自由自在の映画館。
だけど悲しいかな、自分は中に入れなかった映画館。
商店街側と館内側それぞれに窓口の『たこ焼き屋』は、当時3個で10円。
マヨネーズなど概念になく、ソースに申し訳程度の青海苔が確認できれば上出来。
木の皮の浅い舟は、今日にも伝わっているかと?
 

1968~69年当時、申し訳程度のソースが塗られて、3個10円。
2023年現在、別の店ながら、7個390円。
社会と数学(算数)の問題です。
どうよ!?


「なんだよ頁生!?突っ立っていないで、オマエも来いよ!」
うっかり足を止めていると、館内からお誘いがかかってしまいかねません。
 
お金をもらえないから入れない …… 言葉にはできませんでした。
子どもは素直に残酷だから、そうなると友人関係にも暗雲が垂れ込めてしまいます。
 
だから見つからないように、近づかない。
『君子危うきに近寄らず』ならぬ『君子じゃないけど危うくならないように近寄らない』。
これが小学校低学年時代の、私が自ら黙って選んだスタンスでした。
 
「昨日マンガまつり、父さんと母さんと観に行ってきたよ!豪華5本立てだぜ!」
 
ふうん……

ネット上より拝借した、1970年前半(?)の告知画像。
よく見れば「カラー長編まんが」の記載が。


そんな私の映画館デビューは、思わぬ形でその日を迎えました。
 
 
 
<課外学習・映画鑑賞>
 
小学校2年生もしくは3年生の1学期だったと記憶している根拠は、当時学級委員を務めさせていただいていたから。
1969年もしくは1970年、地元大阪は初の万国博覧会開催で、一際盛り上がっていたのでしょう。
 
誰より自身が信じられませんが、中学校入学直前まで、私は成績優秀の模範生だったらしく?
当時は 『勉強ができれば学級委員』 って感じで、毎学年1学期はこれがお約束でした。
人気投票であったなら、黒板に名前すら書いてもらえなかったでしょうけれど(自虐)。
 
列を成して担任の先生の背中に続く、男子の先頭でした。
目指すは夢にまで見たというより、避け続けていた映画館。
心中複雑であることを他のクラスメートに悟られてはならぬと、気もそぞろだったに違いありません。

人生初の映画鑑賞へと向かう道中、小さな心臓はバクバクでした。


クラスメートはほぼ全員が勝手知ったる駅前の劇場まで、徒歩約10分で到着。
右も左もわからぬ私は、先生の指示を聞き逃すまいと、カチンコチンだったと思います。
 
初めて目にするロビー……今にすれば貧相で薄汚れたレベルも、
「うわあ!?」
重たい扉を開いて客席に進めば、スロープ状に沢山の椅子が並んでいて、
「うわあ!?」
朽ち果てる手前の木造の講堂とは全然違う、未来空間のようでした。
 
これが映画館か……
 
 
 
<涙の理由>
 
一般客はシャットアウトですから、児童の着席が確認できれば、直ぐに上映開始です。
当時は定番だった、予告編やニュースなどはありません。
「ニュースが無いぞ!」
ガキ大将の大声に先生の鋭い視線が直撃するも、その意味がわかりませんでした。
 
 
人生初の映画、タイトルすら覚えていません。
 
【ボクは負けない!父さん母さん、待っていてね】
 
この場で無理矢理ひねり出しましたが、案外ビンゴ!だったりして?
 
 
ストーリーは以下の流れだった、と思われますが、これって当時の名作だったのでしょうか?
今になって朧気な記憶の欠片をかき集めて思えば、
「学校観賞用に撮影された、超低予算の文化祭レベルの作品だったのかも?」
画面に色がついていなかった印象しかないのも、その理由のひとつです。
 
小学校低学年の男の子がひとり、遠く離れた両親に会うべく、長旅をする物語。
これだけで某・三千里の少年の物語の借用ですね。
フェリーを乗り継ぎ、警察官に家出少年だと保護される寸前も逃げ切るなど、お約束シーンの数珠つなぎ。
 
みな◆ごハッ◆?
 
多感な女の子は早くも涙目ですが、日本男子に泣き顔はご法度です。
「あーっ!?見ろよ!頁生が泣いてるぞ!」
これだけは是が非でも回避すべきなのが、昭和の男の子社会の鉄則でした。
 
泣いちゃったんです。
 
物語に涙腺崩壊じゃなく、映画館内に自分がいて、仲間と同じように鑑賞できていることに、幼心が感動を覚えていたのでしょう。
 
嬉しくて涙が出ることを初めて知ったのも、映画がきっかけ、ってことになりますね。
 

うわあ……

 
幸い男子には見つからずも、隣席の女の子は見逃さなかったらしく。
「頁生君は心やさしい男子」
先述の通り、勉強も運動もそれなりプラス、女子の間でこの秘話が広がれば、中年男子ならウハウハ(死語)です。
 
満年齢7~8歳は、あまりに幼すぎました …… 残念っ!
 
 
 
<外が眩しかった>
 
観賞を終えて屋外にでると、初夏の晴天だったことを差し引いても、住み慣れた町が物凄く眩しく感じられました。
暗い場所に長時間座っていたのですから当然ですが、これにも小さくビックリでした。
 
「だいじょうぶ?」
この時点で唯一、私の謎の涙に気づいてくれていたのは、クラスのマドンナ的存在。
せめてあと数歳大人だったとしたら、ここから恋の第二幕が上がったかも?……おっと、これは自己評価が高過ぎましたね。
 
 
記憶が確かであれば、昭和44年の6月某日。
そうだそうだ …… スクリーンってヤツが、物凄く広く大きかったな。
 
 
以上が、周囲の子どもたちよりずっと遅れて …… もとい、これでもかと満を持して、映画との初対面が叶った日のお話でした。
 
 
 
<あとがきを少々>
 
最後に映画館に足を運んでから、もう随分になります。
 
ここ数年弱視の進行に拍車がかかり、映画館内の単独歩行に不安が否めません。
座席番号やチケットの印字を確かめるのも困難ですから、これぞご迷惑でしょう。
私個人が勝手に転倒するだけでもご迷惑なのに、無実の被害者や加害者を生み出してしまっては、取り返しがつきません。
 
そんなタイミングに加え、昨今ようやく収束が噂される、全世界規模の禍が覆い被さりました。
私が映画館内に歩を進める可能性、現時点では極めて低い、と申さざるを得ません。

こちらが現時点での(暫定)人生最期に映画館で観た作品。


それでも半世紀以上前のような、負の感情はありません。
熱心な映画ファンではありませんが、どうしても観たい作品は鑑賞できましたし、お気に入りの作品に複数回足を運んだことも。
もちろんデートの定番として、作品鑑賞以上の目的に意識を集中した場面も、あれやこれや……
幼い我が子と親子三人、奮発して2階最前列中央の指定席に陣取ったことも、懐かしく微笑ましい記憶です。
 
『人生はROAD MOVIE』
還暦を過ぎた今、我が物語もおそらく最終章。
 
55年前に生まれて初めて鑑賞させてもらえたあの作品、奇跡的に今一度鑑賞の機会に恵まれたとしたら?
 
涙腺洗浄に至れるかな?
「だいじょうぶ?」と囁いてくれた遠い日のマドンナ、今も元気かな?
可愛いお孫さんに恵まれて、幸せな晩年をお過ごしだろうな。
 
だけど孫娘の可愛さなら、ボクは負けない!
 


#067 / 5161.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?