自分を知った転職

令和3年1月3日。

自分を知るきっかけとなった(と思われる)、転職。

私の転職の旅が始まって、早30とウン年。

今年、2月に還暦を迎える自分の歩んだ道を、改めて振り返ります。

4. 長い道のり

国立の大学病院を辞めると決心した私は、わずか半年後には総合病院の中央手術室に勤務します。

それまで、内科病棟しか経験のなかった私は、前病院の仲間に誘われるまま、その病院に就職します。

「外科系、初めてだ!」などと、怯えることもなく、新しい環境に馴染んでいきました。

そもそも、その病院にも寮がある!(やった~💛)

しかも、たまに当直勤務はあるものの、ほとんどが日勤。

そのころ私は、芝居好きが高じ、日比谷の大劇場の地下にある「戯曲の養成所」に通い始めていたのでした。

何かしら、舞台に関わることができないものか、と思っていた私は、戯曲の創作に強い興味を持ったのでした。

なので、「手術室ならほぼ日勤だし、夜間の戯曲養成所にも通える!」と考えたのでした。

今思えば、どこまで自己都合なのだろう、と思いますが、そこは若気の至り。自分のしたい事に向かって、猛進していましたね。

ですが、手術室の仕事も、新しいことを覚えるため、勉強は一生懸命やったし、また面白かった! 

有名な権威ある諸先生とも、オペのチームを組み、泣きそうになりながらも器械出し(手術の器械を医師に直接手渡す。直接介助)、外回り(患者の受け入れや術中術後の看護、執刀医や麻酔医の指示を受ける。間接介助)してました。

仕事が終わり、戯曲の養成所に通い、休日は芝居や映画を観る。週1回ダンスを習いに行く。まあ、よくやってました。

その後、いくつか作品を書きましたが、あまり才能はなかったのかな~と思います。養成所の仲間は、さすがに奇才、天才が多く、かなりここで刺激を受けました。

当時はまだ珍しかったゲイの友達や、黒人さんの彼氏を持つ友人などもいて、医療関係者にはいない世界にのめりこみました。

病院勤務は、当時の私にとっては、経済的な糧としてでしかなかったような気がします。なんて、図々しいのでしょうね。

その後、その手術室の麻酔科医長が退職し、某病院の麻酔科に行くというので、お誘いを受け、新たな病院の手術室看護師長として転職することになったのです。個人病院ではありましたが、毎日4~5件は手術が行われる、忙しい職場でした。

そこでは、新たに女性の麻酔医の先生と組んで、楽しく仕事ができました。

院長にも信頼され、結構難しいオペにもつかせてもらったりして、看護師のスキルも磨くことができたと思います。

一方、戯曲の養成所を2年で卒業した私は、友人たちの才能に触発され、大学に行くことを決めます。

もちろん仕事をしながらの、夜間大学です。4年制の社会人入学枠で入学しました。

某大学の文学部日本文学科で、手術室勤務が終わってから、毎日通学していました。

医療・看護しか学んでこなかった私には、新鮮でした。

入学当時、28歳の私は、18歳~20歳くらいの同級生や、先輩と楽しく学校生活を送っていました。電機研究部なる、ラジオドラマを創作するサークルにも入りました。

そうして、私の看護師と大学生という、ダブル生活が始まったのです。

私の突きつめる性格や、とことんやり通す行動力は、すでにここで表れてますね(笑)

1番になりたいとか、人より秀でたいというのではないのですが、興味関心が異常に強いというのか・・・

それをやらずにいられなかったんですね、当時は。

4年の夜間大学生活を終え、卒論も提出し、無事卒業しました。

卒論は、「テネシー・ウイリアムズ(アメリカの劇作家)」

戯曲「ガラスの動物園」にみる光と影の中の作家像~象徴主義と抒情性のかかわりを通じて~

真剣だったし、若かったんだな~、私。

卒業と同時に、私は結婚し、その病院を退職することになるのです💛

私、32歳になっていました。




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