「自分なくしの旅」の目標到達点とは

Youtubeにて、古舘伊知郎氏とみうらじゅん氏の対談を視聴した。
テロップが入らなければ気づかないような自然な言葉遊びに、幾度となくクスッと笑ってしまう。

「脳の宿便」「比較三原則」など、いくつもの味わい深いパワーワードを心に刻んだが、その中で一番滋味深く感じたのが「自分なくしの旅」だ。

興福寺・阿修羅像ファンクラブ会長として、仏教に精通しておられるみうら氏。
「自分探しの旅」ならぬ「自分なくしの旅」という言葉は、氏らしい、とても仏教的且つ道教的な観念で心にするりと入ってきた。

幼い頃には爆発させていたものの、少年期には抑圧され、その反動からか、年齢を重ねるごとに強くなる「自我」というシロモノ。
私の座右の銘は「中庸」であるが、なかなか至れない境地でもある。
自我を曲げるということはなかなかに馬力の要ることなのだ。

アジアで生まれ、日本の歴史のほとんどの時期において、日本人の心の拠り所であり道徳であり価値観であった仏教。
仏教を信じてきた素地を持ちながらも西欧的資本主義社会に生きる今の私たちは、だからこそ「自分をもつこと」が大切なことなのだと叩き込まれて育ってきたのではないだろうか。

それはもしかしたら、ツンドラ地帯にバナナの種を撒くような無謀な試みなのかもしれず、よしんば形はそれらしく育ったとしても中身は貧相でチグハグなものとなるかもしれない。

選択肢も誘惑も多く、自己の責任も重い現代、「自分を持つこと」は生きるために確かに大切だとは思うけれども、それが軋轢を生じ生きづらさを生む諸刃の剣であるような気もしている。

無我の境地に至るには自分は凡人すぎる。
果たして、うまく折り合いをつけられる「自分なくしの旅」の到達点は一体どこだろうか。

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