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空気人形

 喫茶店で時間を過ごしていると、周りから漏れ聞こえてくる会話の断片から、私の想像のつかない人生が垣間見える。そして同時にそれらの殆どとは死ぬまで関わりがないのだろうということにもうっすらと気付かされる。

 たとえば私はおそらく死ぬまで美容室の店長を務めることはないだろうし、バイトをしながら音楽活動に勤しむこともないと思われる。しかし、隣席の人が「レコーディングがあるからって休み入れてもらおうとしたら、またクビになっちゃったよ〜」とぼやいていたら、ごく僅かな瞬間しか目の当たりにできない他人のリアルを垣間見ることで、私は自分の苦難を相対化して眺めることができるし、それによって生まれる気楽さがある。人混みに紛れることで得られるのは、この気楽さと寂しさという両面的な感情なのだと思う。

 「その場にいただけで死んでしまった」という事故が最近頭にこびりついて離れない。昨年起きた熱海の土砂崩れもそうだし、つい先月韓国で起きた群衆事故もそうだ。あそこにはもしかしたら一人ぐらい逃亡中の指名手配犯が紛れ込んでいたかもしれないが、殆どの犠牲者は善人というか普通の人だったはずだ。でも、死ぬ。そこにいたという理由だけで死ぬ。私たちは普段政治的メッセージや教科書的な倫理観によってすっかり麻痺させられているが、実のところ人命は吹けば飛ぶようなあっけないものなのだと思う。その場にいるだけで死ぬのだし、死んでも大抵存在は忘れられるし。

 そういう風に考えると、街を歩いていてすれ違う人たちも自分も、みんな空っぽな空気人形のように見えてくる。遺体も燃やしてしまえば、骨は砂に紛れて区別もつかなくなる。しかし、これは別に虚無主義でも悲観主義でもない。その存在がもともと空気みたいなものであるという点では自分も他人も同じようなもので、大した違いはないと思うことができれば、そこからある種の気楽さや優しさが立ち上がってくるかもしれない。

 そういえば、哲学者の中村元(だったか?)が「禅では、Aという人やBという人が存在していると考えるのではなく、存在がAやBをしていると考えるのです」ということを言っていたような記憶がある。こういうのはやっぱり禅なのか。


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