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これはある種の定点観測

(「noteのcakes」アカウントに2019年3月9日に書いたものを転載)

 一週間に一本、駄文を書いてcakesのnote公式アカウントに放り込んでおくのが最近の習慣になっている。毎週土曜日に書くことになっているのだが、「書きたい」「伝えたい」と思うような出来事があまりにも少ないので毎回PCを前にして頭を抱えているのが現状だ。せっかく書くからには、なるべく多くの人の心に刺さるような文章を…と思ってはみるけれど、凡庸な頭で気の抜けた生活を薄ぼんやりと送っている人間には、秀逸な文章の生み出しようがない。それゆえ読んでくれる人もずっと少ないし、読んでくれる人が少ないから好いてくれる人も少ない。これは自分がどれほど弛んだ態度で暮らしているかの証明でもある。日常的に何の闘争もしていない人が、必死こいて生活している人に向かっていくら饒舌に講釈を垂れようと、耳に入るはずはない。なぜなら、それは「嘘」だから。

 ならば文章を書くことを一度辞めてみるべきか、と言うとそう簡単にもいかない。「書く」という行為が、会ったこともない不特定の誰かと「私」を繋ぐ唯一の架け橋(それがどれほどか細く、脆いものであろうと)である以上、もしかするとこの営みこそが僕の闘争になってくれるものなのかもしれないという一筋の希望があるからだ。「闘争」とは、何でもいいから自分が主体的に一定以上の責任を持って長期間取り組める行為の一切を指す。仕事でもいいし、趣味でもいい。肝心なのは、絶えざる向上心と好奇心を持って、夢中で打ち込めるものであるかどうか。そして、それが他人に向かって開かれているかどうか。いずれも僕には足りていない。

 就職活動で面接官に問われる「やりたいこと」は、「私」が「やりたい」だけでは駄目で、大抵その行為を通じて会社や社会に一定の利益が及ぼされるようなものを求められる。業界や職種を決めるための自己分析でも、「どんな人間になりたいか」「手に入れたいものはなにか」などの質問と一緒に「社会にどのような影響を与えたいのか」が重要な問いになっていたりする。

 僕の場合、こういう人間になりたい、これこれが欲しいという願望はあるけれど、「誰誰に対して、こういう影響を及ぼしたい」という理想だけがない。欠落している。本心ではそんなことどうでもいいと感じている自分がいる。自分さえ良ければいい。自分さえ幸せならいい。だから、自分に関すること以外に解決したいと思える事も無ければ、孫正義みたいに「どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」なんて一度も考えたことがない。表向きには誰かの相談を親身になって聞いているように見えても、蓋を開ければ徹底した利己主義者なのである。

 そんな自分のエゴイズムに、最近ことあるごとに嫌気が差すようになってきた。誰にどんなことを言われようと「へえ、そうなんだ…。」以外の返事が出来ない自分にウンザリしているのに、何か気の利いた返しをしようとしても失敗に終わってしまう。親しい誰かに向けて文章を書こうとしても、結局出てきた言葉は全て「私」発「私」着、他人のご乗車お断りの回送列車になっていく。利己主義者が文章を書くことは、本質的には自慰行為みたいなものだから、他人の心に刺さるような文章なんて願うべくもない。

 今日も自分のためにしか文章を書けなかった。いつか、この悪癖が治る日は来るのだろうか? 自分の書く文章が、どれだけ他人のことを考えられるようになっているのかを測るためのリトマス紙みたいなものに思えてきた。ならば、書き続けること以外に術はない。これは定点観測だ。

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