見出し画像

狂気を笑う狂気

文豪が書いた「正常な狂気」

 横光利一という小説家がいる。彼が1948年に書いた『微笑』という短編小説の、冒頭のとある文章を折りに触れて思い出す。それはこんな文章だった。

昨夜もラジオを聞いていると、街の探訪放送で、脳病院から精神病患者との一問一答が聞えて来た。そして、終りに精神科の医者の記者に云うには、
「まア、こんな患者は、今は珍らしいことではありません。人間が十人集れば、一人ぐらいは、狂人が混じっていると思っても、宜よろしいでしょう。」
「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつかえありませんね、あはははははは――」
 笑う声が薄気味わるく夜の灯火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。

 「あははは…」と笑っているのは精神病患者ではなく、精神科医にインタビューをしていた記者の声だ。その記者の声から、主人公は「五百万人の狂人の群れの笑い声」を想起する。つまり彼は、精神病患者を笑う健常者の笑い声に狂気を感じ取っているということになる。

 横光利一は戦後、太平洋戦争に協力した作家の一人として文壇から激しい批判を受けた。終戦間近の日本を舞台にしている『微笑』を読むと、それらの批判に対する横光利一の迂遠な反抗を感じてしまう。戦中に祖国の勝利を信じて文章や演説で援護した横光と、その行為を日本が敗北した後で批判する作家たち。戦争に協力的だった横光も当然擁護されるべきものではないが、全ての結果が出た後からそれを糾弾する作家たちにも、横光は狂気的なものを感じたのかもしれない。

人を感染させる「狂気」

 現代になってからの現象なのかどうかは分からないが、狂気は好意的な文脈で使われることがある。例えばクリエイティブな仕事に従事している人が自分の作品のごく細部までこだわっていたら「狂気的」と称されるし、一部の自己啓発書、正確には「何やっているのかよく分からないとりあえずお金すごくたくさん持ってる風の人が書いた、本の形をした便所紙」には、「狂え」的な文言が散見されることも多い。そして「何やっているかよく分からないとりあえ(略)」の人がなぜ「狂う」ことを薦めてくるかというと、おそらくスティーブ・ジョブズみたいな人格破綻者の天才への憧れがあるからではないかと思う。私もジョブズ症候群ではないものの、何かに「狂える」人にはやっぱり憧れる。

 真理子哲也監督の映画を観ていると、そういう人物がよく出てくる。例えば『ディストラクション・ベイビーズ』には獣のように言葉も忘れてストリートファイトに明け暮れる泰良(柳楽優弥)という青年が出てくるが、この青年は強そうな男と殴り合うこと以外の全ての事物に興味がなく、食べ物も公園のゴミ箱で漁った腐りかけの魚肉ソーセージやスーパーで万引きしたブロックハムと牛乳だったりするし、風呂も入らない。おまけに相手に戦意があろうとなかろうと、強そうな男であれば喧嘩を挑んでボコボコにしてしまう。要するに完全に「向こう側」に行っている存在なのだが、そのあまりの揺るぎなさに思わず観ているこちら側も感染してしまうような、不思議な魅力がある。

 泰良のように実在されては困る人物を、息を吹き込み血を通わせて動かすことができるのは映画を始めとするエンターテインメントの醍醐味の1つではある。映画に限らず、私たちは知らず知らずのうちに日常に存在されては困るような狂気あるいは非日常を、特定の空間に押し込めることによって実社会を円滑に運行させるための基盤を維持している。屈強な闘士たちはリングの上でだけ拳を交えることを許されるし、仮面を被ったシリアルキラーはスクリーンの中でだけ殺人を許されている。思わず手で顔を覆ってしまうような暴力を、それでも指の隙間から覗いて見たい観客(私)はたくさん存在するからだ。

動画サイトに氾濫する「ガイジ」「キチガイ」系動画

 狂気とまでは言えないが、普通予測されるようなものから逸脱した振る舞いは街の中にもたくさんある。例えばあおり運転や電車内で大声で叫んだり踊ったりしている人間を撮った動画は、動画サイトにたくさん落ちている。その中には「ガイジ」や「キチガイ」、「池沼」といった差別的なネーミングが付けられているものもある。基本的にこうした動画は、公共空間で他人に迷惑をかけるような逸脱を戒めるといった感じの大義名分をもって(?)モザイク加工もされずに公開されている場合も多く、再生回数も意外と多い(数万回)。そしてたくさん書き込まれているコメント欄を読んでも、「盗撮」とも言える動画撮影者側の行為や被写体への無配慮などを戒めるコメントはほとんどない。それどころか撮影対象者をいかに面白く揶揄できるかを競う大喜利大会みたいになっている時もある。

 こうした類の動画にはたしかに一定の娯楽性があるし、あおり運転などは道路交通法で取り締まるべきことなので犯罪の抑止にもつながる可能性もある。しかし公共空間で逸脱的な振る舞いをすれば、それを誰かが遠くからスマホで隠し撮ってモザイク加工も満足にせずにYoutubeにあげてしまうかもしれないという状況は、逸脱自体への恐怖にもつながってしまう危険性もある。

 異常な振る舞いを抑圧的に矯正するのではなく、自発的に制御させるような権力のことを規律訓練型権力という。この権力は社会を構成する各人の中に存在し、各人を自発的に逸脱的な振る舞いを嫌うように訓練してしまう。これは公共空間における「空気」の醸成にも深く関わっているのではないかと思う。例えば、学校で教師が質問をしているにも関わらず挙手をして自分の意見を述べることができる人が少ないのは、それを恥ずかしいと感じる空気があるからだ。「恥」の源泉には、大多数とは違う行動をしているという自意識がある。質問をされても沈黙を貫き教師に当てられた時だけしぶしぶ意見を口にする「正常」がまずあって、それとは違うことをしている自己を絶えず監視するもう一人の自己が、わざわざ声をあげる行為の価値を問うてくる。「お前の意見はわざわざ口に出すほどのものなのか?」「ご立派な意見だな。しかしそれをお前が発したところで、耳を傾ける人間はいるのか?」という具合に。

 いつぞや遠山怜さんという方の描いた『創作に携わる、すべての人にこれくらいのメンタリティでいてほしい』という漫画がnoteでバズったことがあった。この作品がnoteという作り手たちのプラットフォームで多く支持されたということは、作品を作って世間に問うという行為がどこか特権行為的なものであって、実力も才能も定かでない無名の者が行うのは異常であるという意識が驚くほど多くの人間を縛っていたということだろう。

「異常」の認定は減点方式?

 「正常」とは、少なからず場所や構成員に規定された最大公約数的な振る舞いである。本来、異常/正常の範囲は人によって微妙にばらつきがあるものだ。しかし個人が集まって一定の場を作るようになると、ある人にとっては「正常」なものであった振る舞いが他の人にとっては「異常」と規定されてしまい、それに伴って「正常」と認識していた人もその振る舞いができなくなる。「正常」の規律が個人の逸脱的な振る舞いを厳格に戒めれば戒めるほど、人は逸脱を恐れるようになる。それは「正常」が堅固になればなるほど、正常を顧みる契機も失われてしまうことを意味する。

 前述したような公共空間における「ガイジ」的な振る舞いを盗撮してみんなで吊るしあげる動画や、過剰な類型化(「〇〇をする人は成功する確率が高い!」、職場で嫌われている人のモノマネなど)を推し進める動画の氾濫は、人の振る舞いを際限なく束縛し、「正常」の円環から外れてしまった人々を攻撃する権威を持つようになる。横光利一が書いたような、狂気を笑う狂気である。

小さな逸脱を積み重ねること

 「正常」が最大公約数的な振る舞いだとするならば、その構成員たちが逸脱に対してもっと寛容になることができれば、正常の範囲をむしろ広げられるかもしれない。そのためには1人1人が日常的に小さな逸脱を繰り返すことが重要であるといえる。例えば、自分が最も安心できる人たちとの関係性(家族、友人、恋人)の中で、空気に合わない振る舞いをしてみる(ただし汚い言葉や強い言葉を使ったり暴力に頼るのは周りの人間をいたずらに不愉快にさせるだけなのでやめる)。それで一時的に衝突が生じてしまったとしても、趣旨を説明すれば納得してくれる人は多いのではないかと思う。

 また勉強や読書というのも逸脱に対して寛容になるための有効な手段ではないかと思う。哲学者・作家の千葉雅也が書いた『勉強の哲学 来たるべきバカのために』という本では勉強を、私たちが帰属している環境の中でできる行為を方向づけている「コード」「ノリ」から少しだけ自由になるための営みとして意味付け、それを実践する具体的な方法が記されている。社会科学(社会学や政治学など)や人文科学(文学や哲学、歴史学など)を学ぶことの1つの大きな意義は、人の行動を社会という大きな枠組みから分析し、長い時間軸の中で俯瞰・分析するという意味で現時点で正常とされている振る舞いについて思考を促すことではないかと思う。

 いろいろ書いたが、私個人としては今1人焼肉へ行ってみたい。1人焼肉専門店ではなく、牛角とかで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?