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就職と老犬

 今月の始めぐらいに次の就職先が決まり、転職活動を終了した。3月から、大阪にある建機リースの会社で財務経理職として働くことになる。先週末には家も探しに行き、会社にほど近いなんばのシェアハウスに入居することにした。

 新生活の目処が立って一息つく。働き始めまで1ヶ月近くあるので今はこれまで行きたかった場所にぽつぽつと旅行したり、仕事で必要になるだろうと思って簿記の復習と経理仕事の内容についてちょっとずつ勉強している。

 2年あまり一緒に暮らしていた両親は、家内唯一の若手である自分が3月から家を離れることになって寂しがっているが、大阪は名古屋からとても近いので週末に時々帰ってきてもいいよ、と言っている。ちなみにこの場合の「帰ってきてもいいよ」は「帰ってこい」の婉曲表現だ。でも元々夫婦二人暮らししていた両親のことはあんまり心配していない。

 今年で17歳になる飼い犬のことだけが心配だ。自分が10歳の時に家にやってきた雌のトイ・プードルで、数年前から1日のうち17~18時間ぐらい眠るようになっている。顔が子犬みたいで、一眼見ても老犬には見えないのだけれど、もう自分ではベッドにもカウチにも飛び乗ったり降りたりすることが難しくなっているし、聴覚も視覚も機能しなくなっている。代わりに嗅覚は脅威的で、彼女が眠っている時に私がお菓子を食べていると匂いを嗅ぎつけて必ず起き出してくる。

 彼女の中では私は家族の中で最も序列が低く(高い順に父、母、姉、犬、自分)、完全に子分扱いのようである。鹿肉ジャーキーをどれほど恵んでやっても、私の抱っこを固く拒否し、体を人差し指でちょん、と突くと吠えて噛みついてくる。昔は何度流血させられたか分からない。今は私が撫でようとすると牙を剥いて威嚇してくる元気はあるのだが、それにも構わず体に触れた時の迎撃は「噛む」というよりは「咥える」に近く、それが老いのせいなのか私への一欠片の愛情からくる情けなのかは分からない。でも夜寝る前に必ず私の部屋に入ってきて、こちらをじっと見てから父親と寝室に入っていく。多分何か食べ物をくれないか期待しているみたいなのだが、こちらはその仕草を勝手に親愛の念に変換して読み取り、一方的に愛着を募らせている。

 新しい職を得たので、可愛い老犬がいる名古屋を離れる。前職は半年で辞めたが、次の仕事は少なくとも数年は続くだろう。そうして生活の拠点が大阪に移ったら、老犬は私が家にいない間に死んでしまうだろう。そう考えるともの悲しい。

「貴女がいつか 去る日まで 私はこのまま ニートでいます 隅田川」などというクソ短歌でも詠んでしまいそうだ。

 ついこの間まで赤ちゃんの状態で抱っこしていた子犬が、自分よりも早く老い、寿命を迎えるのは奇妙なことだ。いや生き物それぞれの人生の長さを考えれば当然のことではあるのだが、少なくとも私の家では人間と同じように犬を扱っていたので、奇妙さが拭えないのだ。

 私の家の隣の隣にはこれも犬を数匹飼っている家があるが、我が家と違って冬でも外に置いた小屋で放し飼いしているし、夏は炎天下に晒されていつも舌を出して寝ている。これはこれで見ているだけで痛々しく、母などはいつも「あの家を動物愛護団体に訴えてやる」と鼻息荒くしているが、今私が感じている別れの辛さを思えば、あの家のように犬が寒かろうが暑かろうが、もう人間の慰めの「玩具」として割り切ってぞんざいに扱ってしまった方が楽なのかもしれない。それなら最初から飼うなよという話だが。

 大切な存在との別れを、「元々いなかったものなのだから、何のことはない、ただ0に立ち返るだけだ」と割り切る考え方もある。最終的にはたったひとりで生きている状態を「0」と定義づける考え方だ。でもそれは無理な話だと思う。大切な他者が増えることによって人間の生活は拡張するが、一度拡張されたスペースが、その他者が消えるのと同時に無くなるということは滅多にないからだ。存在が消えても、その存在が占拠していた場所が空白地帯となって残る。それがいわゆる「記憶」とか「思い出」というものなのだろう。心の中の、以前は誰かによって満たされていた場所が空き地になった時に「寂しい」「哀しい」という感情が立ち上がってくるのだと思う。だからもしも寂しさや哀しさを紛らわせたかったら、その空白地帯を代わりの何かで絶えず埋め続けて「忘却」していく作業が必要になる。もちろん記憶は完全に忘れ去られるものではないのだが、使わなくなった品を棚の奥へ奥へ押しやるように、他の新しい思い出で流し去ることはできる。

 でもこれから自分と関わりがある人たちとの離別を経験するたびに、そんな作業を延々と続けていくことになるのかと思うと、ちょっと気が滅入る。

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