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蕩尽すること

(2020年5月2日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載)

「迷いなく夢中になっている人の姿を見るのは楽しいんだと思う。今はネット社会で周りの目ばかり気にする人が多いけど、僕は本当に好きなことを追求していきたい。先のことを考えたら、旅がつまらなくなっちゃうから」

朝日デジタル『秋田の「釣りキチ三平」東へ西へ 怪魚求めて34カ国』

 「先のことを考えたら、旅がつまらなくなってしまう」という言葉を読んだ時、「怪魚ハンター」という、「社会的評価」や「金銭的見返り」の面では決して報われることのない行為が決して振り払うことのない悲哀を感じてしまうのは、かつて自分も釣竿を片手に、誰にも理解されることのない旅をしていた身ゆえのことだろうか。

 この武石憲貴(たけいし  のりたか)という名の中年男は、釣り業界の中でもおそらく最もニッチな分野である「怪魚釣り」の先駆者的存在であり、2010年には『情熱大陸』にも「釣り人」という肩書きで出演している。

 新卒で入社した会社をわずか2年で退職して以来、日雇い労働や各媒体への寄稿料、著作の印税などをかき集めては世界中の湖沼に棲息する「ヌシ」を求めて竿を片手に40を超える国々へ放浪を繰り返してきた。公式HPには、モンゴルの草原に棲息する世界最大の鱒・「タイメン」、オーストラリアの「グードゥー」、南米最大のナマズ・「ピライーバ」など、彼がこれまで釣り上げてきた「怪魚」たちとのツーショット写真が並ぶ。

 不思議なことに、写真の中で武石が満面の笑みを浮かべているものは少ない。膨大な時間と労力をかけてやっとこさキャッチした獲物のはずなのに。大半の写真の中で、なぜか彼は眉をひそめ、苦痛に近い表情を浮かべているのだ。そこに、

「釣り師って一瞬だけなんですよね、嬉しいのは。次を求めちゃうんです。強欲です」

『情熱大陸』2010年8月1日放送分より

という彼自身の言葉が示すような、決して満足することが出来ない底なし沼の世界ーーーかつ誰にも理解されない世界ーーーに囚われてしまった男の哀切を見出せるような気もするし、ただの気のせいかもしれない。

 ただ、終わりのないキャリア競争、終わりのない可視的な「豊かさ」の追求に背を向けた結果、怪魚をめぐる際限のない放浪に身を投じてしまっているというのは、少し皮肉的ではある。

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 世間的評価・体裁・経済的成功を反故にして、怪魚釣りに打ち込む彼のブログを読んでいるうちに、いつしか「蕩尽」について考えていた。

 自分には「世間一般に高価だと思われているモノが実質幾らで手に入れられるのか」ということを、買いもしないのに調べてみるという奇癖がある。世間一般にお金がかかると考えられているモノ、例えば車、家、PCなどが中古で幾らぐらいで売られているかをネットで調べるのだ。

 結果として、大抵のものは50万円あれば買えるというのが、今の所の結論である。感覚値として10万あれば80%のモノは手に入れることができ、50万円あれば99%のモノは手に入れることができる。100万円以上必要になるのは、例えば新築の一軒家を買うとか、盛大な結婚式を催すとか、あとは医療ぐらいのものではないか。そんな風に、大雑把に捉えてみる。

 車は中古車だったら20万以下で手に入るものがゴロゴロ見つかるし、最低限の家が欲しいのであれば、50万以下で廃屋を手に入れて自分で修理をすればいい、中にはたった3万円足らずで家を自作してしまう人(坂口恭平氏)だっている。教育もお金がかかるけれど、Udemyなどのオンライン教育サービスがもっと発展していけば変わっていくかもしれない。

 記号やブランド、体裁をひとまず脇に置いてしまうと、自分の暮らしがどれぐらいのコストで成立しているのかを明確に把握することができる。そうして把握してさえいれば、結局のところ生活設計の段階で生まれる恐怖って実は少ないのだ。それなのに、何を自分はこんなに恐れているのだろう。

 浅はかな考えかもしれないけれど、結局自分が「欲しい」と思うモノの中には、少なからず「他人が欲しがっているから自分が欲しい」と思わされているモノもある。その境界線は極めて曖昧なのが難しいところなのだが、一つずつほぐしていけば、正体が分からないで無闇に恐れているのは、案外手のひらに乗せられるぐらいの小さな恐怖でしかないのかもな、なんてこともないのかもな、と思う。

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 自分の生活にお金はかからない。だからこそ、むしろ蕩尽してみたい、自分の持ちうるリソースの全てを何かに傾けてみたい。そんな気持ちが芽生えた。その時に連想したのが冒頭にあげた一人の怪魚釣り師だった。

 彼は紛れもなく蕩尽している。家賃が無駄だからと実家に住んで生活費を浮かせ、稼いだお金を全て怪魚釣りに注ぎ込む(情熱大陸出演時点の話)。「子供部屋おじさん」と揶揄されてしまいそうだが、逆に言えば自分に必要なもの、不要なものを判断して、徹底的に切り捨てているように見えた。結局いくら世間が欲しがったって、要らないものは要らないのだ。

 寺山修司が『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、経済暴力としての「一点豪華主義」について書いていた。終身雇用が当たり前、年功序列で漸次的に上がっていく月給をマイホームのローン、自動車のローン、子供の学費、年1度の海外旅行、週1度の外食、といったようにバランス良く配分していくことに腐心し、結果的にマンネリズムに陥っているまさに一億総中流的なお金の使い方に対し、アンチテーゼとして徹底的に半バランス的な生活をつきつける。「住居は、橋の下の毛布一枚でもいいから、欲しいスポーツカーは手に入れる。三日間の食事はパンと牛乳一本にして四日目には「マキシム」(筆者注:すでに閉店した高級フレンチレストラン)へのりこむ。」という風に。

 背広もアパートも食事も、なべてバランス的に配分したら、ぼくらは忽ち「カメ」の一群にまきこまれてしまう。そこで、自分の実存の一点を注ぐにたる対象をえらび、そこにだけ集中的に経済力を集中するのである。背広派、美食主義者、スポーツ狂といった若ものをつかまえて、親父たちは不具だというが、こうした経験の拡張は、実はきわめて思想的な行為である。多岐に発達する情報社会は広く、バランスのとれた情報を配布することで、ますますぼくたちの存在の小ささを思い知らせようとする。定年までのサラリーの計算をしてしまって、それが森進一の一年分の遊興費に充たないと知ったあとも、なおコツコツと働かねばならぬ無名の戦争犯罪人の親父たちの二の舞をふまないためにも、ぼくたちには日常生活内での「冒険」が必要なのである。

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

 最初にこの文章を読んだ時、「住居は橋の下の毛布一枚……」という現実味の乏しい例えと同じく、これは比喩に過ぎないと思った。今でも半分はそう思っている。寺山修司がこの思想を書いたのは、何かの信念に基づいているのではなく、世間の大道に対しての反発や皮肉に過ぎない。この思想を稼働させているのは結局エンジンなどではなく、「健全さ」に体当たりした時の反動なのだった。

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 寺山修司の「一点豪華主義」をリアルに生きてしまった人間は、老いた時にどうなってしまうのかな、と考えてみる。国民年金だけでは足りずに、食うに困ったりするのかもしれない。75歳になってなお、コンビニでレジ打ちをしているかもしれない。「将来」ってそういう怖さがある。老いて死ぬことが怖いのではなくて、後悔や失敗を挽回する気力も自分の生活を向上させる体力ももはや失せてしまい、ただ死を待つようになるのが怖いのだ。そうやって変な風に成熟してしまうのが恐ろしい。

 キリギリスが逃げ切ってくれていたら、と思う。冬に食べるものに困ってしまったキリギリスは、実は地球には一年中暖かい場所もあるのだということを知っていて、そこで廃屋同然の小さな家を買って自分で修理して穏やかに暮らすか、3万円でモバイルハウスでも作る。そして陽の当たる縁側に座って、森のキャバレーで自分が歌い踊り回っていた夏の思い出を宝物のように慈しみながら、安寧の中でなしくずしに人生を終えていってくれれば良いのに。そして健全なアリはそれを見て歯ぎしりしながら憤死してしまえばいい。けれど、アイソーポスの頭の中はそんな結末を夢想するほどお花畑ではなかった。

 つまらない奴だよ、ほんと。

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