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言葉のお弁当

 ちかごろ日記代わりにnoteを書いている。

 始めた当初はライターの仕事がしたくて、できるだけ面白い文章を書こうと腐心していたが、今になってみると本当にはライターになりたくなかったのだな、と思う。隅っこでこうやって気楽に書いているのが楽しい。書くこと自体はたぶん、好きなのだ。そこだけは嘘がない。

 文章を書くのが面白いな、と始めて思ったのは高校時代のクラス日誌だった。出欠欄や連絡事項の他に「自由欄」というのが設けられており、そこに日常思ったことをダラダラと書いていたら先生たちが面白がってコメントを書いてくれた。それから他のクラスメイトたちも「自由欄」を真面目に埋めるようになり、最終的に日替わりの連載枠みたいになった。

 そんなふうに、雑誌コラムの真似事みたいなことをやっていた僕にとって、憧れの存在といえば武田砂鉄とナンシー関(故人)である。僕の印象では二人ともどちらかと言うとへそ曲がりで、皮肉屋。どちらともリアルでは絶対に付き合いたくないが、世間が押し付けてくる「つるし」の価値観を次々に分解して、「ほうら、大したことないじゃないの」と笑うようなコラムを書く。そしてそれを読むのが妙に心地よかったりもするのだ。きっと、生きていく上では熱にうかされるだけではなくて、冷や水を浴びせる方が役立つ場面もたくさん存在するのだと思う。

 武田砂鉄は、短い文字数で紡がれたナンシー関のコラムの密度を「言葉の詰め込まれた弁当」と表現している。ともすると散髪屋の鏡台の前で読み飛ばされてしまいそうな週刊誌の一隅にスポットライトを当てる表現としては、これほど的確で愛情に溢れたものはないと思う。僕もアルミ製のお弁当の中にぎゅうぎゅうに言葉を詰め込んでみたい。しかしそれには毒(皮肉)も薬(ユーモア)も到底足らぬ。

 とまれナンシー関のような幕の内は到底無理だが、こんなふうに味気ない日の丸弁当を毎日せっせと作っては出すというのもなかなか楽しい。作っても食べてくれる人もいないし、結局自分で平らげるしかないのだが。でも日記って元々そんなもんか。

 ちなみに武田砂鉄はナンシー関の死後に、彼女の遺したコラムの選集も作っている。

宝石のごときTVタレントを片っ端から土くれに戻していくような鮮やかな手つきには惚れ惚れするばかりである。日に数十本の両切り煙草と、アパートの一室に並置された複数のTVの前で一日中過ごすような不健康な生活の中で命を削りながら(?)も書かれた言葉たちは、現在でも色褪せない。


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