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”大”に始まり、”小”に終わった初めての家出

(「noteのcakes」アカウントにて、2019年2月2日に書いたものを転載)

 世の中には「家出のすすめ」という本があるが、僕はすすめられるまでもなく生まれついての家出少年だった。

 最初の家出は小学4年生の時。少林寺を習いに通っていた区民会館で稽古終わりに僕が脱糞したことがすべての始まりだった。すでに黒帯を取っていたけれど、武道で鍛えられた精神力も排泄欲の前では無力だった。

 迎えに来た母親は、汚れた道着を手にし、臭いからなのか怒りからなのか顔を歪ませながら僕を叱りつけた。赤ん坊の脱糞は日常茶飯事だが、10歳児の脱糞は悪事だ。車に乗ってからも、母は悪態をつき続けた。

 怒りながら、「ちょっと夢ちゃんの家、寄って帰るから」と言って母は車を自宅とは違う方向へと向けた。「夢ちゃん」とは、僕の「はとこ」のことである。雪のように真っ白な頬が印象的な女の子だった。ありきたりな話だけれど、一つ歳上のはとこのネーチャンに、幼い僕は淡い恋心を抱いていた。そんな片思い相手の家に、よりによって脱糞した今日行くだと!? 僕はかすかな不安を感じ始めていた。

 目的地に着くと、母は助手席に置いてあった菓子折りを手にしてインターホンを押した。中から夢ちゃんの母(僕にとっての従伯母)が出てきた。そして、最悪なことに彼女の背後に隠れるようにして夢ちゃんもついてきていた。嗚呼……。

 母がしきりに従伯母に何か話しかけている様子を、僕は後部座席から見ていた。内容は窓越しにはよく聞き取れないが、二人は時折こちらに眼をやっては笑っている。夢ちゃんもそれにつられて笑っていた。悪い予感はいっそう大きくなる。

 不気味な井戸端会議を切り上げた母が車に戻ってきた。窓の外を見やると従伯母がニヤニヤしながら後部座席を覗き込んでいる。しぶしぶ窓を開いた僕に、従伯母が「鯰(仮名)くん、おもらししちゃったんだってー?」と言うのを聞いた瞬間、顔が一瞬にして沸騰していくのを感じた。ババア、バラしやがった。あの至近距離だから確実に夢ちゃんにも知られているだろう。その場は何とか笑ってやり過ごしたが、腹の中は母への敵意でパンクしそうだった。

 夢ちゃんたちと別れた後、僕は車の中で怒りを爆発させた。母の座る運転席を力一杯蹴り続け、大声で「クソババア!」と喚いていた。母は息子がなぜここまで怒り狂うのか、よく分かってはいないようだった。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 その夜、僕は人生初の家出をした。行き先は隣町のセブンイレブン。実のところ、突発的な衝動だけで家を飛び出し、お金も着替えも持ってきてはいなかったので、どこへ行くあてもなく、おまけに季節は冬だった。そこで暖房が効いていて24時間空いているコンビニにひとまず入り、今後の逃避行について思いを巡らそうと考えた。

 しかし温かいコンビニの中にいても、名案は浮かばなかった。というか自分の育った街の外の世界について、僕は殆ど何も知らなかったのだ。思考停止状態のままでぼーっと店内に立ち尽くしていると、ふと立ち読みコーナーの一角が眼に入った。そこに積み上げられていたのは、「コロコロコミック」の最新号だった。

 武道で鍛えられた僕の精神力は、「でんぢゃらすじーさん」最新話を前にして再び無力化されてしまった。その後、僕は家出そっちのけでマンガの立ち読みに勤しんだ。日付が変わる時刻になってもなお立ち読みコーナーでぶっ壊れたように笑っている小学生は、店員さんの通報を受けて駆けつけてきたお巡りさんに連れられて、自宅へと帰還することになった。こうして僕の第一次(プチ)家出計画は、失敗に終わった。戦略面と物資面における欠乏、そして最後は小学館社員たちの総力を結集した妨害工作が決め手となった。

 家に帰った僕が最初に見たのは、玄関の前で腕を組んで仁王立ちする父親の姿。誇張でも比喩でもなくホントに仁王立ちしていた。殺られる。最低でも半殺しは免れないだろう。何せ相手は、小学5年生だった頃の我が姉が、家から1000円を盗み出すという事件を起こした時、「どっちだ! どっちの手で盗った!?  お父さんが今から切り落としてやる!」と言いながら、押入から白鞘を取り出してきた男だ。

 震えながら、うつむきがちに正面に立った僕に、父は一言、「眼を閉じろ」と言った。似たような言葉をちょうど同じ時期に平井堅が世界の中心で叫んでいたような気もするが、困ったことに文脈だけが全然違った。

 観念した僕は、おそるおそる眼を閉じた。瞬間、右頬に強烈な打撃。僕の体は思いっきりふっとばされた。生まれて初めて喰らう父の渾身の平手打ちだった。その衝撃たるや……もうね、盛大にちびりました。

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