見出し画像

捨てられないもの、捨てたいもの

(当記事は、2019年2月23日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載したものです)

 私はあんまり物を持たない。部屋は殺風景と言えるほど何も置かれていないし、寂しいからと言って観葉植物や土産物屋にあるような置物を買う気にもならない。それどころかカーテンさえつけていないから私の部屋で営まれる一切の行為は丸見えである(もはや近所迷惑)。ミニマリストを気取っているわけではないけれど、物が溢れ、ゴミ袋が処理されずに置かれているような雑然とした部屋には恐怖を感じる。必要なものがあるべき場所に収まっていれば気持ちよく生活できる。3月に移り住む予定の新しい部屋は、今の部屋の半分ほどの広さだが特に困らないだろう。物欲がないわけではないが、物に対する愛着は少ない。たいていの所持物は誰かにあげたり金に困って売ったりしてしまうし、そうでなくともいつの間にか紛失してしまったりして自然に姿を消していく。数年間も所持し続けているものなど、数えるくらいしかない。

 そんな私だが、どうしても捨てられない物が3つだけある。

 一つは、大学4年生の時に友人とモンゴルを旅行した時の写真。フブスグル湖の湖畔にあるゲルで撮った。ベッドの上に二人で並んで座っているところをチェキのタイマー機能を使って切り取った一枚だが、チェキ独特の粗い画質が何気ない光景を妙にノスタルジックなものにさせていて、何となく捨てられずにいる。特に一緒に写っているのが大切な友人なので、尚更。だから、それ以来この写真は私の小さなカードケースの中に仕舞われている。事あるごとに取り出して見るわけでもないから、Tポイントカードや、国会図書館の会員カードなどと一緒にケースの底の方に眠っている。多分これからもそうやって私の手元に残り続けるだろうと思う。

 捨てられないものの二つ目はペンケースだ。

 これは中学二年生の頃に名古屋のラシックで買ってもらったもので、15cm定規がやっと入るぐらいの大きさの布袋である。ベージュ色の布が使われていて、表には絵本に出てくるような画調で宇宙空間が描かれている。左端には地球と、そこから天体望遠鏡で星々を眺める博士風の男、右端には宇宙空間を漂う宇宙飛行士と太陽が描かれ、上の空白部分には「C’est un endroit chic!」(「なんて洒落た場所なんだ!」と意訳してみるが、自信はない)というフランス語が添えられている。ペンケースをひっくり返して裏を見てみる。絵は描かれていない。代わりにベージュ布の上に油性のマジックペンで4つの教訓めいた日本語が書かれている。「がむしゃらにやること」、「開き直ること」、「惨めな気持ちを忘れないこと」、「理解を深めること」。これは私が高校3年生の頃に自分で書いたものだ。決して得意とは言えない受験勉強をする中で、何とか自分を励まそうとして一つ、また一つと書き足されていったメッセージだった。他人がこれを見ても、おそらく何を言っているんだか分からないかもしれない。言葉自体が示す意味はどれも乏しい。しかし、私は今でもこの「教訓」を見ると当時の自分が過ごしていた日常をありありと思い出すことができる。何事にも結果が出せない自分、他人と自分を比較してふさぎ込んでいる自分、自分の頭をしっかりと使って物を考えずに誰かが作った公式に頼ってばかりの自分、不甲斐ない現状にウジウジと幾日も悩んだ後にどこか吹っ切れた自分…etc。たった4つの短い言葉でも、それを書いている時の当人は本気で悩み、もがいている。個人的な苦境を乗り越えるためには、どんな心がけが必要か。悩んでいる当時は一生忘れないと思っていても、苦境を乗り越えてしまえばいつか忘れる。そういった意味では、ペンケースの裏に書かれた言葉が傍目にはいくら凡庸な文字列に映ったとしても、私にとってはいつまでも金言となりうる。だから、このペンケースは捨てられない。行き詰まったら、がむしゃらにやる。開き直る。必死に頭を使う。ただし惨めな思いをしたときの悔しい気持ちを忘れずに。



 3つめの捨てられないもの、それは一冊の世界地図帳だった。小学4年生の誕生日に母が買ってくれたものである。この地図帳の面白いポイントは世界中の文化遺産と自然遺産を写真付きで紹介するコーナーが巻頭に設けられているところだ。白神山地のブナ原生林、知床半島、エアーズロックやエベレスト、そしてマチュピチュなど、世界中の雄大な風景の写真が収められたそのページから私が世界の広さを実感するのは、地図を眺めるよりも遥かにたやすいことだった。私は生きている間に地図帳に収められた雄大な自然や遺跡を見てみたいと考えるようになった。同時期、私は自分が通う学習塾に置いてあった児童文学や小説を読むようになり、そのうち「冒険」と「物語」が少年時代の大きな関心事となっていった。

 「冒険家」。これは、私が小学校の卒業アルバムの「将来の夢」欄に書いた言葉である。あの頃、本気で冒険家になりたいと思っていた。実際、私は子供なりの冒険をいくつか試みてもいた。中でも忘れられないのは、小学5年生の夏に、自転車に乗って故郷の名古屋から岐阜まで、往復100kmあまりの道のりを一人で走破したことである。もともと明確な目的地(地名)を決めて望んだ計画ではない。自分の部屋の窓から、街のずっと向こうにうっすら見える山の麓まで行ってみたかったのだ。この「街の向こうにうっすら見える光景」は、私の冒険の原点とも言えるものだ。そこに行けばきっと心躍る不思議な世界が待ち受けているのではないか、という予感が私の空想する絵空事の主な着想にもなった。

 そんな風に少年時代を思い起こしている私は、今年で24歳である。冒険家にはなっていない。世界地図帳で幾度も眺め、焦がれていた風景へは、旅行で簡単に行ける時代になった。「冒険」も「物語」も、大人になった今では口に出すのが恥ずかしい言葉である。それは人によっては「現実逃避」と≒で繋げられてしまうし、実際にそんなきらいが無くもない。少なくとも今の私にとっては、「冒険」も「物語」も、よく言われる「自由」と同じくらいに欺瞞に満ちた言葉に思える。年を経るにつれ、これらは私を「競争」や「集団」から遠ざけ、「一人で居続けること」や「勉強が出来ないこと」を正当化してくれる口実になっていったからだ。

 だから、この地図帳はそろそろ手放してもいいんじゃないかと、ここ数年ずっと自問し続けている。今年小学4年生になる従兄弟にでも譲ろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?