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食物アレルギーとADHD、そして御懐妊

子ども②は産まれて直ぐから肌が弱く、耳たぶが切れて出血するような子だった。
生後6か月で、パン粥を食べさせたら、30分後に全身に蕁麻疹が出て、慌てて写真を撮って小児科に連絡。
受診時には蕁麻疹は消えていたが、医師が写真を見て“食物アレルギー”を疑った。
採血したところ、乳・小麦・卵が陽性で確定。
母乳っ子だったので、私も出来るだけ食べないように気をつけた。
大好きなデニッシュパンを食べられないのは辛かったが、子どものためと思って・・・
その後、1歳で乳・小麦は制限解除になったが、卵は2歳過ぎまで除去した。
栄養士といえども、家族の分から取り分けるには大変で、市販の離乳食や幼児食のお世話になった。

2008年4月、子ども①が小学校入学、子ども②が1歳になったタイミングで、週4回ほど出産した市立総合病院の診療科受付のパートを始めた。
ただ保育園の一時預かりは週3回までなので、残りは嫌でも毒義母に依頼するしかなかった。
ただ毎回迎えに行くと、いろいろ文句だったり愚痴を聞かさせられて、非常にキツかった。

小学校に入学したばかりの子ども①は、問題を起こしまくりで、入学式後1週間で呼び出された。
担任と養護教諭と支援学級の教員と3対1で話し合い。
最終的に発達障がいの子どもたちのサポートセンターへ行くように言われて、予約した。
実は入学前にも、保育園から勧められて1度行ったことがあるところだった。
最終的に、2008年7月に子ども①は『注意欠陥多動性障害(ADHD)』と診断名が付き、ソーシャルスキルトレーニング等を進めていくこととなった。
子ども①が幼い頃、黒いクレヨンでしか絵を描かず、毒義母に
「母親の育て方が悪いから、こんな暗い絵しか描けないんだ!」
とか
「赤ちゃんの時から保育園に行かせたから、落ち着きがないんだ!」
とか散々言われ続けたが、診断がついた途端に
「あら、おじいちゃんやおじちゃん、パパも同じね~」
って言いやがった。
【毒義父の遺伝子が原因じゃないか!?】って心の中で黒い渦が出来た瞬間だった。

それと同じ頃、佳哉と夫婦生活をしぶしぶ再開させたら、なんと妊娠発覚!!
まだ子ども②と蜜月の時を過ごすつもりでいたので、2歳半くらいになるまでは3人目を考えていなかった。
それなのに、たった3回のSEXで妊娠なんて、今までの不妊治療はいったい?といった感じだった。
いつもの子ども①の予言は、私に叱られてばかりで言えなかったが、発覚前から【ママのお腹に赤ちゃんが来てる】と気がついていたらしい。

これは2008年夏~2009年夏頃のエピソード。
2009年は新型インフルエンザが流行した時期でした。
愛車もセレナに買い替え、納車されて数週間後の妊娠判明。
チャイルドシートが2台、ジュニアシート1台を乗せるために買ったんでしょ?って、みんなに言われました。
さすがにリバティだと3列目は狭かったので、タイミングがよかったのかな。

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