マガジンのカバー画像

からだ・健康・医療(My favorite notes)

26
からだ・健康・医療をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事を集めまし…
運営しているクリエイター

2024年4月の記事一覧

再生

第1210回「心を調えるには」

修行道場で、一週間にわたって、『天台小止観』の内容について講義をしていました。 実際に坐禅をするのに、いろいろな方法が説かれていて、初心の者にはたすかります。 また長年修行していても参考になるものです。 最終日には、呼吸と心の調え方を講義していました。 呼吸について『天台小止観』には次のように説かれています。 大東出版社から出ている『天台小止観』にある関口真大先生の現代語訳を参照します。 「初めて坐禅に入るときに息を調える方法について述べよう。 呼吸にはおよそつぎのような四種類の相がある。 一に風、二に喘、三に気、四に息という。」 とあります。 四種類に分けて説かれています。 「このなか前の三種は調わない相で、後の一種だけがよく調った相である。」 というので、「風、喘、気」という三つはまだ十分調っていない状態なのです。 それぞれ次のように解説されています。 「ところで風といわれるのは、坐禅のとき、鼻のなかの息に出入の音があるのが、それである。 喘の相とは、坐禅のとき、呼吸に音はしないけれども、しかも息の出入に結滞があってなめらかでないのを喘という。 気の相とは、坐禅のとき、音もなく、また結滞もないけれども、しかも出入がなめらかでないのを、気という。 息の相といわれるのは、声もなく、結滞もなく、粗くもなく、出入が綿々として、息をしているのかしていないのかわからないようになり、身を資けて安穏に、よい気持ちになる。 これが息である。」 という四つなのであります。 「風といわれる状態でいると気が散る。 喘といわれる状態の呼吸をつづけていると心にもむすぼれができやすい。 気といわれる状態の呼吸をつづけていると、やがて疲れがでる。 息といわれる状態の呼吸をつづけていれば、心がおちついてやがて定まってくる。 つまり風・喘・気の三種の相があるときは、これを調わない呼吸といい、坐禅にはまた患のもとともなる。心も定まりにくい。」 と説かれています。 そこでどうしたら調うのかというと、 「もしこれらを調えようとするなら、まさにつぎのような三種の方法を試みるがよい。 一には、精神を体の下のほうにおちつけて、そこに精神を集結する。 第二には、身体を寛放してみる。 第三には、気があまねく全身の毛孔から出入していて、それを障礙るものがないと観想することである。 もしその心を静かにしていれば息も微微然となり、息が調えば、患は生じないし、その心も定まりやすい。 これをわれわれが初めに坐禅をするときに息を調える方法とする。」 と丁寧に書いてくださっています。 それから次には心を調えることです。 これは 「初めに坐禅をするときに心を調えるということには、およそ二つの意味がある。 一には、乱れがちな心をおさえて、外の余分なことにむかってかけだしたりしないようにすること、二には、まさに沈・浮・寛・急をほどよく所を得させることである。」 と書かれていて、自分の心が「沈・浮・寛・急」のどの状態になるのかを観察して、それぞれに応じて調えてゆくのであります。 まず「沈といわれる状況は、坐禅をしていて、心がうす暗く、記憶もはっきりせず、頭がどうしても低く垂れがちになることがある。 これを沈という。 そういうときは、精神を鼻の頭に集中し、心をつねに一つのことのなかに集注して分散させないようにする。これが沈を治す方法である。」 と書かれています。 気持ちが沈むような時には、心を上の方に向けるのです。 私などは、少し目もはっきりと開けて坐るように心がけています。 また坐布というお尻のところを少し高めにするということも気をつけたりしています。 気持ちが沈む時というのもあるものです。 それから次は 「浮というのは、坐禅をしていて心が好んでゆれ動き、体もまた落付かないで、ついほかのことを考えたりしてしまうことである。 これを浮という。 そういうときには、心を下方に向けておちつけ、精神を臍に集注し、乱れがちな心を制するようにする。 心が定まっておちつけば、心は安静になる。 要点をあげてこれをいえば、沈ならず浮ならず、これ心が調った様子である。」 ということです。 心が落ち着かないような時には、へそ下の方に意識を向けるのです。 それから、「急」というのは、「坐禅のときには坐禅のなかに心のはたらきの全体をあつめて、それによって禅定に入ろうと努力することに原因する。 それ故に気が上方に向かいがちで、胸憶が急に痛むようなことがある」というのです。 「そんなときには、一度その心をとき放した上に、気はみな流れ下ると想うがよい。 それだけで思いは自然になおる。」 と説かれています。 それから「心が寛である相とは、心志がだらけ、体が斜めにのめり込むような気持ちがしたり、あるいは口から涎が流れたり、あるときは心が暗くなったりする。」 時であります。 だらけるとか、心がゆるんでしまうときです。 「そのようなときにはまさに姿勢をきちんとしなおし心をひきしめ、心を一つのものごとのなかに集注し、身体をしやんとする。 それで治る。」 と説かれています。 白隠禅師なども「心火逆上してのぼせあがり、肺が衰え、両脚は氷雪の中に漬けたように冷え切」る状態になっていたので、気を下に流すために、内観の法や軟酥の法を用いたのだと思うのであります。 よく心を調えておいて、それから臨済禅の場合は、公案の修行に入ってゆくのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

再生

第1207回「坐禅の呼吸」

朝比奈宗源老師が坐禅について語られた言葉に、 「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。 これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。 掘れば出ると思うから骨も折れる。 だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。 そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。 道具もいる。努力もいる。 坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。」 とあります。 仏心を具えていながら、そのことに気がついていないのが私たちです。 気がつく為にはどうしたらよいか、やはり坐禅がよろしいのです。 その坐禅をするにはまず姿勢を正すことから始まります。 朝比奈老師は 「姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。 腰を立てないとどんなにしても力が入らん。」 と仰る通り、まず腰を立てることであります。 森信三先生は立腰と説かれました。 腰骨を立てることなのです。 それから更に朝比奈老師は、 「そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。 それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。 そこで無字なら無字を拈提して坐る。」 と説かれています。 おへそから指の幅四本分下くらいのところです。 しかも体の表面ではなく内部です。 これが丹田です。 次に呼吸ですが、朝比奈老師は 「息はーよくこういう質問をする人があるから言うが、息は吸うときに力を入れるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。 どうもこれも色々やってみたが、経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くとき鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。 つまり何だな、上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気になる。 だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。」 と説いておられます。 これは岡田虎二郎先生が説かれたのと通じるのであります。 岡田虎二郎先生は、その著『岡田式静坐法』の中で正しい呼吸として、 息を吐く時下腹部(臍下)に気を張り、自然に力のこもるようにと説かれています。 その結果息を吐く時下腹膨れ堅くなり、力満ちて張り切るようになるというのです。 吐く息は、緩くして長いのです。 吸う時は、空気が胸に満ちて、胸は自然に膨脹し、胸が膨れるとき臍下は軽微に収弛を見ると説いています。 呼気吸気のときに、重心は臍下に安定して気力が充実しているというのです。 吸う時に腹を膨らまし、吐く時に腹を収縮させるのとは違うというのです。 息を吐くときお腹をへこませずに、圧をお腹の外にかけるように意識してお腹周りを「固く」させるのが腹圧呼吸と言われますが、それに通じます。 朝比奈老師は、 「そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。 呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。 この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。 つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」 と説かれていて、これは呼吸をも手放すことを言っています。 『長生きしたければ呼吸筋を鍛えなさい』という本で、医学博士の本間生夫先生は、次のように書かれています。 「人間の体の機能を正常に保つうえで、じつは二酸化炭素は酸素よりも重要な役割を果たしている面もあるのです。 ホメオスタシスのなかでも、特に重要なのが酸性・アルカリ性のバランスです。 人間の体はpH7.4の弱アルカリ性(pH 7、0が中性) で、 この数値をキープすることが、体調を正常に保つために非常に大切です。酸性に傾いても強いアルカリ性になっても、コンディションを崩しやすくなります。 このバランスを保つために、非常に重要な役割を果たしているのが二酸化炭素です。 血液中に二酸化炭素がたくさんあると体は酸性に傾き、その逆に少ない場合はアルカリ性になっていきます。」 と二酸化炭素の重要さを説いていて、そこから更に、 「二酸化炭素の調節システムは、この「無意識に行なわれる代謝性呼吸」のときのみに作動して、「意識して行なう随意呼吸」のときには作動しないメカニズムになっているのです。 ですから、深呼吸のような「意識して行なう呼吸」をずっと続けていると、二酸化炭素の調節システムが作動せず、かえって体内バランスを崩すことになってしまうわけです。 繰り返しますが、1、2回の深呼吸をたまに行なう分にはまったく問題ありません。 しかし、わたしたちの体をいつも通り一定に維持してくれているのは、あくまで「無意識に行なわれている呼吸」です。」 というように「無意識に行われている呼吸」の重要さを説いてくれています。 意識的に呼吸を調えて、調っていったならば、呼吸を手放して無意識の呼吸に任せるのがよろしいかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

脳の鍛えかたを理解する【賢い脳のつくりかた】

「しっかりと勉強をするためには、たくさん復習をして、何回も同じことを繰り返し続けないといけません」というのは間違えであるということが、近年の研究で分かりました。 集中学習同じ勉強を何度も繰り返したり、復習を続ける学習方法を集中学習といいます。 じつはこの"繰り返し続けておぼえる"ことは、脳にとってはあまり意味がないようで、何度もお経を唱えるように復習をするよりも、ある程度時間をおいてから復習をするほうが、脳にとって都合が良いのです。 もちろん、短期記憶と長期記憶というも

再生

第1184回「同調の効果、その恐ろしさ」

先日甲野陽紀先生にお越しいただいて講座を行ってもらいました。 甲野先生の講座は、毎回驚きの連続であります。 今回もどんな発見があるのか、とても楽しみにしていました。 終わってみると、やはりというか、予想以上の驚きと感動でありました。 三時間があっという間に終わったという感じであります。 新しく修行道場に入った者も加わっているので、「一動作一注意」という基本から学び直しました。 これはどういうことかというと、『身体は「わたし」を映す間鏡である』という甲野先生の本には、 「「一動作一注意」とは、「ある動きをするときには一つのことに注意を向けることが大切」という意味です。 たとえば「立つ」という動作でも、指先なら指先という一つに注意を向けて立つ場合と、いくつものことへ注意を向けて立つ場合では、明らかに身体の安定感が変わってきます。」 と書かれています。 実際に、この指先と指先を軽く触れさせて立っていると、横から押しても微動だにしなくなるのです。 これを初めて教わった時は驚きでした。 今回も参加者はそれぞれ二人一組になって実験しました。 今度は指先を合わさずに、指先だけに注意を向けるのです。 指先にだけ注意を向けていると、同じように体は安定して、横から全体重をかけて押しても微動だにしなくなります。 また同じように指先と指先を合わせていても、なにか別のことを考えると体は途端に崩れてしまいます。 これが一動作一注意ということなのです。 さて、今回は更に同調効果ということを習いました。 同調というのは、よくもらい泣きするような時がありますが、あのように同調してしまうのです。 一人の者をAとして、指先に注意を向けて立ってもらうと、とても安定して押しても動きません。 もう一人の者は、そのAにだけ注意を向けて立ってもらうと、やはり身体が安定して押しても動かないのです。 Aに同調するのです。 ところがAが、指先に注意を向けずにだらっとしていると、身体は不安定になってしまいますが、同時にAに注意を向けているもう一人の者も身体は崩れてしまうというのです。 これが同調ということなのです。 更に驚いたことがありました。 Aが一つのことに注意を向けずに、ただだらっとして立っています。 当然身体は不安定なのです。 もう一人の者は、Aを反面教師としてAのようにはならないぞと思って立っていても身体は崩れてしまっているのです。 「あのようになってはいけない」と思っただけで、すでにAに注意を向けてしまっているので、Aに同調しているというのです。 こういうことを、三人一組になって実験したのですが、実にその通りなのです。 ではだらっとした人の影響を受けないようにするにはどうしたらいいかというと、別にところに注意を向けるなりして、Aへの注意を断ってしまうことなのだそうです。 人は誰かに注意を向けただけで影響を受けてしまうということなのです。 これは気をつけないといけないと思いました。 修行道場でも姿勢の崩れてしまっている者がいると、姿勢が崩れているなと思っただけで、もうその悪い姿勢の影響を受けてしまっていることになります。 あの人はこの頃たるんでいるなと思っただけで、すでに影響を受けてしまっているのです。 これは恐ろしいと思いました。 また良い人の影響も受けるので、これは有り難いことであります。 竹を使ってのワークもまたおもしろいものでした。 二人で一本の竹を持っています。両端をそれぞれ持っているのです。 二人がそれぞれ、自分の目的地を決めて歩こうとして、それを三人目の者が竹の真ん中を持って止めようとします。 ふたりで竹を持って進もうとしても目的地がバラバラであれば、簡単に止められるのです。 ところが、その二人のうち一人が明確な目的地をもってそこへ進もうとして、もう一人の者は、その進もうとしている人にだけ注意を向けていると、今度は第三者が止めようとしても全く止められなくなって、どんどん進んでいくことができるのです。 ほんとうに力がいらないのであります。 それから更に一人の者に横になってもらって、それを四人で持ち上げるということを実験しました。 四人が、肩のあたり、腰から膝の辺りに左右それぞれ手を入れて持ち上げます。 それぞれがそれぞれの思いで持ち上げようとすると、持ち上げられなくはないのですが、とても重く感じます。 そこでリーダーを一人決めます。 リーダーは持ち上げるという明確な意志をもって持ち上げようとします。 他の三人は、そのリーダーにだけ注意を向けていると、実にこれが軽々と持ち上がるのです。 ほとんど力を入れていないのに持ち上がるのです。 これもリーダーとなる人の影響を受けるということです。 リーダーがリズム感をよくて軽々と持ち上げると、みなそれに同調して軽々と上がるのです。 たいへんそうに持ち上げるリーダーだと、みんなたいへんそうに同調してしまうということです。 修行道場では重たい木材などを持ち上げることがありますので、これは早速応用できそうだと思いました。 同調は恐ろしいものです。 たとえで甲野先生は、最近の体験を話してくれました。 電車の中で一人大声を出して叫ぶような者がいて、電車の中の全員の注意がその人に向けられて、みんな同調してしまったそうです。 甲野先生はすぐに注意を断って別のことに注意を向けたそうです。 気をつけてみると、その電車の中で若者がイヤホンをつけて音楽を楽しんでいたそうです。 イヤホンをつけて音楽を大きな音量で聴いているので、その大声の人に注意は向かないのです。 その若者は心地よさそうに音楽を聴いていますから、その若者に注意を向けるとよい同調が起きるのだというのでした。 かくして前半は同調についていろんな実験をして学びました。 後半は手首と足首を学びました。 中指と腕をまっすぐのままにしていようと思うとしっかりするということでした。 この「まっすぐのままにしていよう」と思うのがいいので、「まっすぐを保つ」とか「まっすぐに固定する」とか「まっすぐに決める」というと、固定してしまって崩れてしまうのでした。 「まっすぐのまま」というとある程度の曖昧さがあるのですが、それがかえってしっかりとするのだそうです。 保つや固定するというと、かたくなってしまい、かたいと崩れやすいのです。 ままにすると、しっかりするけど柔らかさがあるので、かえって強くなるのです。 更に足の中指を足先とまっすぐのままにすると、実に安定して立てることも学んだのでした。 そのように我々修行道場では集団で生活していますので、今回学んだ同調の効果とその恐ろしさについては大いに参考になることでした。 そしてまた学ぶ楽しさを実感したのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺