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【 自叙伝 】自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅

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自叙伝を綴ろうと思ったそもそもの動機は、うまく通じ合えない両親に対し、如何に私自身の「心の風景」を伝えるか…と言うただその一点だった。当初は手紙程度で納めようと考えていたものが、… もっと読む
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#瞑想

(1-1)初めての高野山【 45歳の自叙伝 2016 】

初めての高野山  初めて高野山を訪れたのは湾岸戦争のあった19歳の九月だった。当時バイト先で嫌な事があって一人で十日間ほど紀伊半島を旅していた時だった。  橋本の駅舎で野宿をし、朝一番の電車で高野山を目指す。まぁ、せっかく近くに寄ったのだから、母が常々口にする高野山と奥の院を見てみよう…と、深い動機もなくほとんどが観光気分だった。  南海の各駅停車は霧に包まれ、急な勾配とカーブをキュルキュルと車輪を鳴らして上って行った。ケーブルカーで高野山駅に着く頃にはだんだんとその

(6-1)自叙伝を書き終えて【 45歳の自叙伝 2016 】

四十六歳を前に  四十六歳を前に、私の心がどういう風景を辿って来たのか。そもそも何故この自叙伝を書き記そうとしたのか。最初の動機は、ただ「知って欲しい」という思いだった。もちろん相手は両親に他ならない。  私から見て両親はどういう存在だったか、それを一言で表すことは不可能だった。書き始めて思い出したことも数知れず、記憶を整理しながら、様々な思いがよぎり、筆は遅々として進まずであった。盛り込みたいエピソードはまだまだ幾つもあった。そして気がつけば、書き終えるまで 丸二年以上

(5-12)心の奥に【 45歳の自叙伝 2016 】

縦軸と横軸  もともと母が発会した「パドマワールド」は、ヨガと瞑想の会であるが、父が倒れた後は、ヒーリングの会だった「真理を学ぶ会」と半ば強制的にひとつになったような格好にあった。しばらく、ぎこちなさはあったと思うが、現在( 2016年10月時点 )は良い意味でひとつの方向性を指し示し始めていると思っている。  では、実際に何をしたいのかと問われれば、それは、今生を意味あるものとするために、自らの内側にその智慧を見出し、強く生きるための軸をそれぞれに自らに打ち立てたい…と

(5-8)現実を見据えて① 弱さと傲慢【 45歳の自叙伝 2016 】

厳しい経営  父が倒れてから私たちは真理を学ぶ会ではなく、パドマワールドとして活動を始めた。もちろん会社としても、その活動に対しての決算となった。しかし、それまで父頼みで成り立っていた収支の現実は、大した解決策もないまま、ただ厳しくなる一方だった。それは父がヒーリングに復帰してからも続き、当然ながら状況分析をせずにはいられなかった。  思い返してみると、過去そうであったような、父のカリスマ性を活かした「場」作りを私は出来ずにいた…と言うより、一連の父の出来事によって、これ

(5-7)原因を自分に求める【 45歳の自叙伝 2016 】

都内のファミレスで  佐藤さんが亡くなられて、ちょうど一年後ぐらいだったか、珍しく岡松くんと両親との四人で食事をしたことがあった。父は本格的に各地を回り始めていて、動きとしてはだいぶ回復してきているようだった。青山の会場を終え、とあるファミリーレストランで久しぶりに岡松くんと会うと、父は最新と自負するヒーリングのテクニックや、読み解いた症状の因果関係をしきりに話し始めた。  父の話を聞いていて、いつもの癖が出ているな…と私は思い始めた。それは分析の甘さが招く、安易な法則の

(5-5)佐藤さんの宿題【 45歳の自叙伝 2016 】

心が救われるために  ヒーリングに対して、揺らいだ気持ちを抱きながらでも、声を掛けてもらえる会場や個人の方がいると、やはり通すことを止めることは出来なかった。そうしなければ自分たちが干上がってしまうからだった。東北へ行くときは低価格の高速バスを利用したが、その道中は有意義な勉強時間となっていた。佐藤さんが亡くなってからと言うもの、その「心」が救われるために必要なものを求める思索のなかで、あらためて、仏教の唯識思想関連の書物を読み返していった。理由は「心」を紐解くことだった。