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優柔不断なふりをやめてから

私の周りには、優柔不断な友人が何人かいる。

じっくり考えてから物事を決める。
それはより良い決定をするために当然のことで、「やっぱりこれにしておけばよかった」という後悔を減らすためにも必要な過程だ。

「類は友を呼ぶ」ということわざがあるように、私も友人に似て、自分自身のことをずっと優柔不断な人間だと思っていた。自分自身の性質をそういう風に決めつけていた。

しかし友人と一緒にいるうちに、私の優柔不断は、友人のそれとは少し違うような気がしてきた。

友人の優柔不断とは、お昼ご飯を食べようとしたときに、「Aランチもおいしそうだなあ。でもBランチも捨てがたい。それともやっぱりパスタにしようか」と、いろいろな選択肢に思いを馳せて、本人の意思決定を毎回逡巡させることだ。

私はというと、「私はなんとなくAランチが食べたいと思っている。でも友人はサラダうどんにすると言っている。私もサラダ系のものにした方がいいかな」という、本当は選びたいものがあるのに、周りの人からどう見られるかによって選択を変えようとする迷いが優柔不断だと思っていた。

友人のそういうところが好きなのだが、友人はとてもマイペースで、後ろに人が並んでいても、自分の意思決定を迷うプロセスを決して早めたりはしないし、できない。

私は違って、後ろに人が並んでいると思えば、何となくそのプレッシャーに気圧され、大して食べたくもないご飯をその場で選べてしまう。
私と友人の、行動をとる理由が違うと思った。

私が意思決定を変えようとする理由は、後ろの人を気遣ったためではない。「自分が後ろの人からネガティブな評価を受けたくないから」だ。

では友人が本当の「優柔不断マスター」だったとして、私は何なのだろうか。

振り返ってみると、(今もその性質は持ったままだと思うが、)高校生くらいまでは他の人の視線にやたらと敏感だった。

制服を着るのも好きではなかった。セーラー服の制服自体はとても好きだった。私が嫌いだったのは、みんなで同じ服を着ることだ。

みんなが同じ服を着て同じ場所にいれば、制服のサイズや、顔立ち、髪型、制服の着方、学校生活の過ごし方なんかで、無意識的にも有意識的にも、他人と比べられて評価されてしまう。

私はそんな中で、誰かの目を気にし続けて、いわば優柔不断なふりをしているようなものだった。他の人の意見の方が自分よりも正しいと勝手に思い込んでいた。

でも自分の人生を歩んでいるのは自分だけで、これまで経験したことだって、家庭や周りの環境だって、大事にしている思い出だって、言語化できないようなもやもやした気持ちだって、他の人の立場では知り得ないものを自分だけは知っている。

他の人には、他の人の数だけ、それまでに歩いてきた道があって、いる環境があって。その立場を完全には私は知り得ないし、どんなに近しい人だったとしても、程度の差はあれど、100%は理解できないということに変わりない。

高校を卒業して、制服を脱ぎ捨てて、私は優柔不断なふりをするのをやめてみようと思った。

食べたいものはなるべく後ろの人や友達が食べるものを気にしないで、完全な直感で決めることにした。思い出に残るご飯の写真が増えた。

大学の入学式にもスーツは着なかった。暗めの色のワンピースを着ていった。会う人会う人全員スーツだったので、調子に乗って、私だけこの場の主人公なんじゃないかと錯覚した。

優柔不断なふりをするのをやめてからは、今までの反動のように、誰かのアドバイスは聞けなくなった。

「大学を卒業したら就職するものだ」「正社員にならないとこの先安定はない」「女の人は早く結婚した方がいい」、今でも度々投げかけられる社会通念を全部無視して、自分の生きたい選択肢を選び続けている。

というかもはやそういう生き方しかできなくなった。高校生の頃の私が知ったらきっと驚くだろうな。

優柔不断さが愛しい友人との付き合いは、高校卒業後もずっと続いている。

彼女がマイペースに、じっくりより良い選択をするために迷っているのを横で見ながら、ああ本当に「類は友を呼ぶ」だったんだなあと実感して少し誇らしくなる。

優柔不断なふりをするのをやめて、もうすぐ10年になる。
これから先も、日常生活の選択肢も生き方の選択肢も、すべて自分の意志、考えに従って生きようと決めている。

いくらでも迷っていい。真の優柔不断マスターになる。より後悔の少ない日常を送るために。


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