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クルミドコーヒーの朝モヤ

モヤモヤを問い考える

ふと立ち止まって自分のモヤモヤを言語化できたり、モヤモヤをみんなで語り合って自分なりの答えがみえてくる。

クルミドコーヒーのイベント「朝モヤ」に魅了されて、オフラインオンラインでリピート参加した昨年。
今日は2021年初の参加だった。

クルミドコーヒーは西国分寺にあるカフェで、「朝モヤ」という対話の場が月2〜3回開かれている。
2時間ほどかけて日々のモヤモヤから始まる問いを出して、語らっていくという内容だ。

今回も20〜60代とさまざまな年代の20人が集まった。
初参加の人もいれば、なんと5年くらい参加し続けているという常連さんも!

傾聴と多様性の受容

対話にあたってルールは2つある。
1つ目は、話すより聴くこと。
2つ目は、様々な意見や違いを楽しむこと。

今回は下記の問いがあがった。

・どうしてZoomで部屋の背景が気になるのか?(自分の他者に与えるイメージ?背景に触れるのはオンラインハラスメント?)
・人はなぜ譲り合ったり奪い合ったりするのか?
・なぜ嫉妬するのか?
・今の事態を災い転じて福となすことができるか?
・なぜ人はダークサイドに堕ちるのか?(邪悪な気持ちに惹かれることがあるのか?)
・どうやって職場を選んでいるか?
・友達と親友の違いは?(親友は何人いるか?)
・そもそも友達って何?
・無駄とゆとりの境界線は?
・ゆとりをなぜ許せないのか?
・なぜ読書をするのか?
・懐かしいとは?(どんな感情なのか?)

友達と親友の違いは?

参加するまで特にモヤモヤはなかったのだが、人の話を聴く中で、「友達と親友の違いは?」という問いが浮かんできた。

私にとっては、一緒に旅ができる人(長時間一緒にいても苦にならない人)が「親友」だったが、コロナ禍で旅に誘えない状況が続く中、親友でいたい人と疎遠になってしまわないか、モヤモヤしていることに気づいた。

また、自分にとって人とのつながりは大切なテーマであることを再認識し、過去のnoteを見返した。
本『友だちの数で寿命は決まる』
愛とは、生かし、生かされること

無駄とゆとりの境界線は?

さまざま挙がった問いの中で、「無駄とゆとりの境界線は?」について語り合うことになった。

"無駄な会議"は、なぜ無駄だと感じると感じるのか?
目的や成果(得るもの)の有無
捉え方次第?
ゆとりとは何か?
目的や成果を予め設定しないこと
直感的な行動や、それに割ける時間
偶発的な面白さがある
時と場合、人によって無駄とゆとりは違う
人の行動や時間を無駄と決めつけない

思えば、特にモヤモヤはないまま、直感的に朝モヤに参加したのも、ゆとりかもしれない。
無駄をなくすこと、ゆとりをもつこと、どちらが良い悪いというよりは、バランスをとって伸びやかに過ごしていきたい。


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