左利きのウサギの目はブルー

 左利きの人は左利きに優しくない環境にとても敏感だと思うんですが、今日もそれを味わった。銀行にて、書類を記入しようとしたら、ボールペンがカールコードみたいなので繋がっていてそれが机の右端から繋がっていた。
すなわち、左利きの人は体ごと右寄りにして、右利きの人が使う右手の位置まで左手を持ってこないといけないのだ。もうちょっと、コードを長くしてくれよ…と思いつつ、手続きを済ませた。
 他には改札なんかがいい例。切符は左手だから入れにくい。かといって、右手で入れようとしたら、慣れなくてやや右手が震え失敗することがある。しかし、この春から僕はやっと、文明の利器であるICカードを手に入れたのでタッチで通れるようになったのだ。少しだけスマートになった気分だ。
子供の頃のほうが左利きは不利だったかもしれない。ハサミは切れない。(しかも、技術家庭教師歴30年の先生に、『お前みたいな不器用は初めて見た』と言われるくらい人類稀にみる手先が不器用。)、書道はまるっきり左利きに向いてない、極めつけは国語のノートだ。

「国語の時間は書いてても手が汚れないから良いな。」

と右利きの人々から散々言われた。君たち、右利きは知らないだろうけど、国語を除くすべての横書きのノートで手は汚れているんだよ。自分たちのことしか見てない右利きの君たちは知らないだろうけど。
 突然、ここで告白するが僕は実はハーフなのだ。父も母も日本人なのだけれど、ハーフなのである。そう、実は左利きと右利きのハーフ。さんざん、右利きのことをボロクソ言いやがってと思う人もいると思うが僕がしたくてそうしたんじゃない。これはもう生まれ持った性質なのだ。
 ざっくりいうと、「技術の左」、「力の右」なのだけれどもこれがうまく作用しているかというと多分、作用していないことが多い。「バランスが良い」と人から言われるけれど、逆にバランスが悪いのかもしれない。技術だけあっても力がなかったらだめだし、力がだけあっても技術がなかったらだめなことが多いので。これが不器用に拍車をかけているに違いない。
 あと、結局どっちつかずの利き手になって、どちらの所属でもなくなる。そしてこれがまた性格にも影響を及ぼしてそう。なかなか根深い利き手問題。
 「ハーフ」ということに焦点を置けば、ハーフの人の所属がどちらでもないっていうの本当に下手すれば、孤独感覚えると思うんですよね。ポジティブな考え方できたら、どっちも故郷だってなるんでしょうけど、僕にはきっとその考えはできなかっただろう…。
 ずっと思っているのは、ギターは単純に右で始めたけれど、実は左だったんじゃないのかってこと。そうしたら、また違うギター人生を送れていたかもしれない。いつだって、人生は左か右かを選択するものだと思い知る。

おやすみなさい。

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