日本的チル、海外的chill、根本的に違う事


私が海外でよく受ける質問の一つに

"Are you Japanese American?" or "Japanese British?" という質問がある。
つまり日本語ではあなたは日系のアメリカ人かイギリス人?という意味である。

おそらくこの質問を受ける理由としては私が語力は置いておいて発音に関してはネイティブ同様に会話をすることができ(謎にブリテッシュ訛り)、
さらに海外のイメージから日本人は英語ができないからきっとあなたは普通の日本人ではないでしょというステレオタイプからであろう。(この日本人現在実証中の舐められてる説はまた別の記事に認めたいと思う)

以前グローバル子供の本音という記事で自身の生い立ちを書かせてもらったのであるが22歳にして4カ国しかもアメリカ、ヨーロッパ、アジアと異なる大陸に住んでいた私はまだ自分が一体純日本人と言えるのか、海外在住経験がある帰国子女なのか、価値観までもがハイブリタイズされたインターナショナル子供なのか、どこのカテゴリーに属しているのかが分からないでいる。

ここで少し紹介を兼ねてこの場を借り、
「自身の価値観の構築に影響を与えたイベントの総譜」
を作り整理しながら話してゆきたい。

まず私は制服、おさげ規定のあるような東京の幼稚園からアメリカの幼稚園に英語が全く話せない状態でぶち込まれる。
幼い時の酷い記憶とはなかなか忘れることがなく、そこでは英語が話せていた日本人にめちゃくちゃいじめられた。そこで必死こいて英語を習得しそのまま小学校2年生まで現地の学校で学ぶ。

アメリカの小学校の授業は英語のクラス、ライフスキルのクラス(人生の色々について学ぶ)、美術、音楽の他パソコンのタイピングやスペイン語が必修であった。またニューヨーク市街から1時間程離れた町に住んでいたため私の親同様、両親がマンハッタンで働く中国系のアメリカ人なども多く比較的多様な人種の中で育った。またアメリカと言えば豪勢な誕生日会というものをイメージするかもしれないがまさにその通りであり、運動ジム貸切ってピエロを呼んでパーティー、プールパーティー、工作するような場所でみんなで手芸をしたり、恐竜の化石をほるなど今考えるとかかっているお金は半端ないと思う。

余談であるが小学校3年生のとき日本に帰国した際に当然のようにマクドナルドを貸し切って誕生日会を開きたいと懇願した自分やそれを推し進めた両親は今考えたらすごく面白い。

話は戻り、ここで誕生日会に呼ばれる=友達であるとような暗黙の了解的なものがあり、たくさん呼ばれていた私はありのままの自分らしく過ごしていればなんの問題もないと思っているハッピーな小学生であったと思う。おそらくこのままアメリカで小学校中学校と過ごしていたら自分はどんな性格であっただろうかと考えるがおそらく自分のことをAmerican Japaneseとして認識していたかもしれない。

がしかし小学校2年生の夏に帰国、日本の現地の小学校に通い始める。
もちろん友達も誰もいなかったため1からの友達作り、そしてここで初めて仲良しグループ制度そして軽いいじめを目の当たりにする。さらにここでモテ期を経験。しかしそれがめんどくさいことに自分の仲の良い友達の好きな人であったりして呼び出されても友達が目をギラギラ光らせていたので行かなかった記憶などもある。おそらくこの小学校2〜5年生という比較的センシティブな時期に日本の友好関係の文化を経験したというのが後々の私の人への接し方であったり日本らしい振る舞いをすること、相手の心を十分に呼んだ上で自身の行動を取らなければグループから仲間外れにされてしまうという恐怖を覚えさせたのだと思う。

がまさかのドイツに転勤。
日本人学校に1学期ほど通っていたがここはまさに海外と日本のハイブリットであり、グループ制度もありつつ日本に比べオープンであった上になぜかクラスで一番と2番目にモテていた女の子二人と仲良しに。自分ちょっとイケてるかもなんて思ったのもつかの間、インターナショナルスクールに転校した。

私の通っていたインターは日本人も少なくはなかったため私は日本人の友達や日本文化が好きなドイツ人の友達、少し内気なヨーロッパ人やアメリカ人の友達と仲が良かった。客観的に見ると自分をグイグイと表現するようなタイプではない人たち、相手のことをしっかりとよむ日本的な性格が少しある子と仲が良かった。もちろん人気グループに対する憧れもあったが日本人は相当な美人でない限り人気のグループに入ることはできないし、入ったところで楽しくないだろうなと思っていた。このことからおそらく私はすでに日本的な性格のベースはできていてため、一緒にいて居心地が良いと思った友達もそういった一面がある子が多かった。けれど、授業やその他の生活では自分の考えはバンバン言わないといけないしそういった授業内容を受けていた訳であるから考えを前に出すことや積極的性を学んだ。

そして高校からは日本の高校に入学、(2学期ほど地元の中学を経てなんとなく日本ないずされる)帰国子女が多い学校であったと同時に中高一貫校であったため途中からの入学は既存の友好関係に割って入ってゆくような感じであったが部活に入部したこと、そしてそれが本当に良い部活であったことが私のまた新しい価値観の構築に影響したと思う。

私は練習が週3、試合が週1−2回あるようなゴリゴリに体育会系のソフトボール部に人柄が良いという点だけで入部した。同期が15人いる中で初心者の私が入ったところで絶対にレギュラーは取れないしはっきりいって最後の最後までボールが怖かった。ただここでは諦めずに挑戦することであったり、エラーをして交代させられた時にいかに瞬時に気分を切り替えるか。つまりどんな時でも前向きである必要があるかといったこと根っから叩き込まれた。もちろん先輩後輩関係もここで学んだが私の部活は本当に先輩も後輩も根っから良い人しかおらず、(絶対に人の悪口を言わない、気を使う、とにかく相手の価値観を理解しそれを受け入れることができる人たち)ここでは私らしく、日本文化とは若干ずれていたにも関わらず丸っとつるっと受け入れてくれた。そんな良い人たちには絶対に嫌な思いはさせるものかと人一倍他人を気遣うことを大切にしたし今でも私が相手に気を遣わせるくらいなら自分が使った方がましであると考えることに至っている。だから私はおそらく日本の組織に組み込まれたとしてもなんとかうまくやっていける自身はある。

高校の部活の引退後、(部活にいる間もしていたが)様々な課外活動に加えYouTube活動を始める。正直始めた理由としては海外のYouTuberに感化され人気者の人たちを見て生じていた自己の承認欲求を満たしたいから、世界にもっと自身を知見させたいから始めた。日本文化を世界に広めたいなんて後付けだ。ここで細々と活動を始めるが学校の一部男子達にアカウントが広められ中傷の対象にされる。芸能人でもないのに動画投稿をしたり、他人と違うことをすると叩かれてしまうという現実を突きつけられ、私自身という人間の否定にも、日本の価値観の否定にも繋がった。やはり自分は周りの人と違うんだと。

このモヤモヤのまま大学に入学。親との進学に関する大げんかを経て法学部政治学科に入学するが帰国入学が比較的重視されている学部のため帰国子女や留学生がまわりに多い。自ずと打ち解けた友達は中国人の留学生の友達、18年間イギリス育ちの友達、高校で単独カナダ留学した友達、などインターナショナルなバックグラウンドを持った人たちが多くなった。
自分らしくあることに対して否定はしないし、きちんの自分の意見を持っているけど、節度のある対人関係ができるそんな居心地の良い友達に囲まれた。おそらくここが私の終着点であり今の私である。

ただほとんど英語しか話していない今置かれている留学生活の中で新しい自分の発見があった。日本人ともほとんど会話をしないため、1日が本当に英語だけで終わるという日常はおそらく小学生ぶりであった。ここで私は英語を話している時の自分というものに改めて向き合うことができているし、英語を話している時の私と日本語を話している時の違いというものも明確になった。

だからこそ自分を完全な日本人だとどうしても思えないし、だからと言っておそらく日本以外の国の人全員とうまくやっていけるかと言われたらそうではない。

このなんとも言えない結論を抽象的にまとめれるとタイトルでもある
「日本的チル、海外的chill、根本的に違う事」論
であると思う。

日本で  #チルってる   #チルする   #ビーチでチル  というハッシュタグを見たことがあるのではないだろうか。

このように「チルってる」「チルする」「チルる」などに使われる“チル”の意味は、簡単に言うと「落ち着く」「まったりする」という意味であり、
いわば現代の若者言葉である。

この“チル”の語源は、英語でいう”chill out”(チルアウト)から派生し、
和製化され現在の「チルってる」「チルる」といった形で使われることに至っている。

ここまでの説明はさておき、その言葉が使われるタイミングや瞬間であるがおそらく #ビーチでチル している瞬間は海辺でまったりしている瞬間、#友達とチル はおそらくある程度中のいい友達とまったりしている瞬間を表すための用語であると思う。

しかしこれを深く読み解くとおそらく日本的チルはもっとずっと奥深い。
例えば#友達とチル だとこれのハッシュタグが使うためにはある程度、

むしろかなり中のいいお互い気を遣わなくてもいいような友達と別になんも話してなくても居心地がいい時が流れていて今この瞬間まじ最高。

みたいな意味を持ち合わせているように思う。ただただその辺でだべっているという意味ではなくその奥深くにはめちゃくちゃ色々隠れている。

これに対して英語で言う友達との"Chill"は違う。
自分の過ごしやすい空間にいる今最高。と言うことを意味している。と思う。
そこに気遣いや細々したものは存在しない。
日本的チルからするとかなり自由なchillなのだ。

そして私はこの海外的chillを体験して全く居心地がいいと思わなかったために自分の新しい一面を見つけた次第だ。

EDMフェスに行った帰り、人がおおすぎて電車に乗れず、終電がなかったためにカルフォルニア育ちの韓国人の友達が、彼の友達を紹介してくれ、
” Let's chill with my friends at my friends airbnb" と言われた。つまり近くに宿を借りていたためとりあえずだべろうよ。みたいなニュアンスである。
ここには4人ほどいたのであるが全員英語の方が話しやすいようなアメリカやハワイで長いこと住んでいた韓国人であった。

とりあえず暇だしそこの空間にいようと言うことで私は了承して行ったのであるがもう本当に泣きそうになる。趣味の映画の話をひたすらしている3人と取り残された私はもうどうしたらいいのーっ!となってしまった。

そもそも初対面の人とたちのとのチルというものは日本的チルからして考えられないことであるし、どう考えてもチルできないでしょ!と思ってしまった私は留学生活の中でやっぱり日本的対人関係よりかなり負担は少ないし自分らしくあれてるから私やっぱり海外よりなんだな〜と思っていたのであるが、かなり日本的側面が自分の中にあるなと思うきっかけになった。


つまりこの日本的チルと海外的chillの違いを身を以て体感した結果、自身はやはり日本的な考えがベースにあるちょっとインターナショナルな人にすぎないだけなのかもしれない。



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