さらば有安杏果ブログの雑感とアプリコッターが共感されない理由

有安運営によるファンの無差別ブロックの開始

正直、もう何も出てこないと思って油断してると、毎度何か粗相をやらかす有安の運営。

今度は、有安の運営がファンをtwitter無差別にブロックして物議を醸している。一番の問題は、直接リプでアンチな言動をしている「迷惑」ファンだけではなく、有安に対するネガティブな感想を自分のアカウントで呟いた人や、有安に対するネガティブな意見をリツイートした人まで、わざわざエゴサしてまで軒並みブロックしているらしいのだ。その中に有安のファンクラブに入っている人や、ソロライブに参加した人、今後のライブに参加意向がある人まで含まれており、相当な物議を醸している。

個人的には無差別ブロックでなく、ある程度ブロックされても仕方ない人が多いようにも見えるのだが、筆者も当然ブロックされた人を全員知ってる訳ではないし、コアなファン側でも「無差別」と考えている者がいることから、実態も無差別に近いのかもしれない。ブロックの基準が曖昧なのも騒動を拡大を促進している一因ではないかとも考える。
twitter上でも物議を醸しているし、表になってないところではもっと話題になってるはずだ。筆者のライングループでも騒動についてそれなりに話題になっている。

そんな中、多少厳しい意見を持ってたとはいえ、有安についてもそれなりに追ってたファンが書いたブログが話題になった。そのブログはすでに消滅してしまったので詳細は省くが、要は「有安が無差別にブロック祭りをして」おり、「有安はファンにはキチンと向き合わず褒めてくれる人だけ向いてるがきんちょ」であり、「それはファンの甘やかしにも原因がある」との論旨であった。

それに対するSNS上での反応に対して思うところがあるので、記述をしていきたい。

予想通りのアプリコッターの反応

件のブログであるが、twitterで追ってる限りでは内容は概ね好評であるように見受けられた。

一方、それに対して嫌悪感や反論をするファンはいつもの決まったファンであり、そのファンの反応も以前と一緒であった。

そういった意味では、かつてのファンやこれからファンになる可能性がある者と、現在のファン、つまり「アプリコッター」との間に大きな心理的な壁があるように見え、個人的にはその点が今回も非常に残念であった。

筆者のこれまでの各筆記から分かると思うが、筆者自身はファンの問題もそれなりに大きいという立場を取っており、件のブログの「ファンの甘やかし」部分の論旨には共感を抱く者である。

と、いう前提ではあるものの、アプリコッターの反論や嫌悪感のワンパターンさは何なのだろうか、また、アプリコッターが反論しても彼らの仲間内以外に共感を得られないのはなぜだろうか、と逆に考えてしまった。

当然、アプリコッター側に理があるのであれば、アプリコッターの反論や嫌悪感に対する賛同が件のブログより多く見られて然るべきである。しかし実態として、アプリコッターの反論は仲間内だけでは受けがいいが、とても中間派の共感を得ているとは言い難い。

よって本稿は、「なぜアプリコッターが反論しても共感が得られないのか」を分析し、願わくばアプリコッターが、今後は有安に対するポジティブな意見を醸成できるために、(一部)アプリコッターに懐疑的な筆者から塩を送ろうじゃないか、というものである。

アプリコッターの反論はなぜ共感を産まないか

結論から言うと、「アプリコッターの反論・嫌悪は感情的で、全く論理的でないから」共感を産み出すのは難しい。

件のブログに対する各アプリコッターの言動を見てみよう。「ネガティブキャンペーンそのもの」「恨み節」「決めつけ」「愛がない」などの言葉で件のブログを批判している。ところが、これは単にアプリコッターの嫌悪感を語っているだけで、件のブログの真っ向からの反論にはなってないのだ。

冒頭にも書いたが、件のブログは「有安が無差別にブロック祭りをして」おり、「有安はファンにはキチンと向き合わず褒めてくれる人だけ向いてるがきんちょ」であり、「ファンの甘やかしにも原因がある」との論理構成である。

と、するとロジカルに反論するならば、「有安はファンにキチンと向き合っている」と言うことを、中間派が納得が行く形で反証しなければならない。

しかも、今回のブロック祭りと言う物議を醸している流れを念頭において反論する必要がある。あるいは「有安の甘ったれはファンの甘やかしに原因はない」と言う線で反論しても良い。

ところが、アプリコッターのやっていることは感情的に件のブログをいわば「貶す」ことだけだ。

件のブログが共感を得ているのは「有安がブロック祭りをしており、ファンと向き合っていないじゃないか」と言う空気の中で、実際にブロック被害に会った者が、その流れを汲んだブログを書いたからだ。それに対してコアなファンであるアプリコッターがただ「貶す」ことがどのような効果を産むか、アプリコッターは真剣に考えたことがあるのだろうか。

もちろん「自分が好きなものの悪口を言われて不快だ」と言う感情は理解できなくはない。

しかし、(一部)アプリコッターの言動は仲間内で批判を貶めるだけの言動を垂れ流しているだけにしかすぎず、筆者に言わせれば極アンチと同じくらい悪質で、彼らの発言は中間派の不快感は醸成しても、共感を得ていくことは難しく、単純に害悪だと言える。

筆者がアプリコッターならどうするか

筆者がアプリコッターで、件のブログに多数の人間が共感している現状を変えたいのであれば、件のブログに事実ベースを元に反論をしていっただろう。

ブログの文書が長いと言うことは、細かく見ていけば論点はいくつも見つかるではないか。その中で事実ベースやブログの矛盾点を積み上げて記述していくことは決して不可能だとは思えない。それによって「件のブログは信用力は落ちる」と言うことと、アプリコッターも冷静に中立に状況を分析できるんだ、と言う安心感を中間派に植え付ける作戦に出たであろう。

もちろん、筆者個人は件のブログを批判する意図も意思もない。あくまで「アプリコッターの立場として件のブログの批判するとしたらどうしたら良いか」と言う思考実験をしているだけである。

ただ現在のアプリコッターの論客の中に論理的に説得力がある文章を記述できる人材が欠けている点は否めない。そういった意味では、「まともに」意見表明できる人材がアプリコッター側にも求められており、文章や論理構成に自身がある者は、そろそろ声を上げていった方が結果的に良いのではないか、と考えている。

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