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ケアの不在と「傷つきやすさ」

仕事をしながら、Podcastで配信された8月29日の『文化系トークラジオLife』(TBSラジオ)を流していた。テーマは「ケアってなんだろう?~令和時代のつながりと責任の話」。冒頭はリアルタイムで聴いていたのだが途中で寝てしまったので、聴き直したいと思っていた。

結局ほんの少ししか聴けなかったのだが、今日気になったのは、最初に出演者を紹介する場面でライターの山本ぽてとさんが話していたことだった。「(別で放送された「予告編」で)私すごいケア上手よ、という感じで言ってしまったが、しかし、どっちかっていうと、かなり苦手な…。ケアって私にとっては苦手分野っていう、ちょっと苦手意識があるので。」

この部分しか聴いておらず、本編でこのことについてどのように語られているのかまだ知らないのだが、この「ケアへの苦手意識」というのが頭に残った。もっと取り上げられてもよいトピックなんじゃないかな、と思ったのだ。

この一年間ほど、私の中でまさにこのことが大きな問題だった。ケア、という言葉は思い浮かんでいなかったが、自分が「他者への気遣い」ということについてかなり融和できずにいること、できれば他者を気遣うことから遠ざかりたいと願っていることに急激に気づき始め、そのことに大きな罪悪感を抱いていた。

遠ざかりたいと願う理由は大きく分けて三つあった。ひとつは、自分の「気遣い」が相手が望んでいる形がどうか分からず不安になるから。ふたつめは、そもそも相手が本当に必要としている気遣い(=ケア)を実行するだけの力がなく、その無力感にひどく落ち込んでしまうから(その、他者を気遣わなければいけない場面でまず自分の無力さを嘆いていることも嫌だった)。そして最後に、自分に対しても同じだけの気遣いが欲しいと考えてしまうから。

これらの気持ちをどう処理していこうと考えたときに、一旦それらの是非は脇に置いておいて、この「誰かを気遣わないことへの罪悪感」自体がどこから来るのかを探ろうとした。思い浮かんだのは「傷つきやすさ」という言葉だった。鷲田清一さんの『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)という本で知った言葉だ。エマニュエル・レヴィナスというフランスの哲学者の思想だそうで、本の中では次のように綴られている。

他者の苦痛に対する苦痛、他者の悲惨とその切迫を感じないでいることができないということ、このことがレヴィナスのいう〈傷つきやすさ〉の意味である。なるほどわたしは後になって他者のこの傷から眼を背けること、見て見ぬふりをすることもあるかもしれないが、そういう選択以前に、わたしはその傷にふれ、その傷に感応している。そういう選択以前の応答(réponse)、そういう他者の苦しみに苦しむわたしの〈傷つきやすさ〉のなかに、〈責任〉(responsabilité)というものの根があるというわけだ。

「他者のこの傷から眼を背け」たいと思っている私がそのことを後ろめたく思うのは、私の選択以前にすでに、私が「その傷にふれ」てしまっているからなのかもしれない、と思った。その時点で生じてしまっている責任を放棄しようとしていることに、罪悪感が生まれる。だとしたら、私にとってこの「傷つきやすさ」は、唯一の救いだと思った。

ケアをしないこと、ケアができないこと、今の社会ではこれらのことが否定的に語られる場面のほうが多いように感じる。他者とつながること、他者を気遣うことが善で、そうでない状態のことを詳しく慮るという行為は、少なくとも私の身の回りにはあまりない。本当は、ケア不在の現場にも「傷つきやすさ」は存在しているかもしれないし、もしそこで「傷つきやすさ」さえ失われているのだとしたら、何がそうさせてしまったのかを考えなければいけない。他者を気遣わない私にできることは、ケアを行うことだけでなく、ケアが行われないことについても積極的に目を向けていくことなのかもしれない。

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