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キャンドルが灯る時間だけは


昔から三半規管だけは強いわたしが通勤時間のお供にしている本たち。基本どんなジャンルでも読みたい欲は湧くのだけれど、この時間だけは小説を読みたい欲に駆られる。転職してから通勤ラッシュと疎遠になったわたしは、揺れる公共交通機関の内側でめいっぱい物語の世界に浸ることを喜びとしているのだ。


わたしの読書遍歴には波がある。
幼稚園のときには祖母の読み聞かせが楽しみのひとつだったと記憶している。誕生日に園で用意されるバースデーブックなるものにも《ほんやさん》と将来の夢の欄に先生の綺麗な字で記されていた。
そんな状態で小学校に入学したので本は大好きなままだった。小学校には今までに触れ合ってこなかった本がたくさん溢れていた図書室があったし、漢字を習うことで読める本の幅も広がり、夢中になって本を読み漁っていた。だから、読書感想文がのちにわたしの心をかき乱す存在になるとは、小学校低学年のときには予想もしていなかった。小学1年生の頃、ありがたいことに読書感想文コンクールで最優秀賞を受賞した。放課後ひとり残って先生とマンツーマンで読書感想文を書き直したことだけは鮮明に覚えている。その頃は貰った賞状が誇らしくて気にも止めていなかったが、学年が上がるにつれて、添削という名で意図していなかった想いに感情を書き換えていたことを理解した。残念ながら、小学生の頃には本来の感情や考えを言語化する高度なテクニックは持ち合わせておらず、マリオネットのようだった。加えて、はたしてそれが真実の感情なのか虚偽の感情なのかすらあやふやな未熟者だった。そんな風に感情に偽りを重ねているうちに、大人たちの心を掴む感想文を意図的に生み出せるようになった。
それから中学から高校へと階段を上っていくなかで、本を手に取ることはだいぶ少なくなってしまった。それが大人への反抗心からだったのか、それとも大人への諦めからだったのか、もしくはその両方からだったのか。言葉にしないまま曖昧で空中でバラバラに壊れてしまった感情は、今となっては闇の中に埋もれてしまった。ただひとつ言えることは、当時はそんな本音をすっぽり隠して部活動や課題を言い訳にしていたということだけだ。
高校のときにも課題として読書感想文を書くことになったことがあった。投げやりなフリをして書いた言葉たちは偽りにまみれていた。読書感想文を偽ることが当たり前になってしまっていたのだ。偽りで彩られた想いたちは案の定大人の心に響いた。コンクールに出してみないかと声をかけられて断ったのが唯一の抵抗だったのだと思う。わたしも大人の仲間入りを果たしてしまった。抵抗するくらいなら偽りで感情を彩らなければいいのに。矛盾まみれの言動たちがあちらこちらで内乱を繰り返して胸焼けがした。当時のわたしはこれまた言語化できずにただ気持ち悪いという感情に苛まれていたけれど、今なら言える。嘘偽りで埋もれた言葉を無意識のうちに(いや実は意図的かもしれない)使っている自分に嫌気がさしていたのだ。
大学に進学してようやく読書感想文のような皆んなに可愛がられるような愛嬌たっぷりの猫を被ったわたしを演じる必要がなくなった。そんなわたしを評価する場は全くなくなったからだ。それと同時に本を読みたい衝動に駆られた。食欲のように湧いて出た読欲のおかげで、お気に入りの本屋がたくさん見つかった。地方の限られた本屋の中で見つけるお気に入りの場所はわたしの好きを加速させ、大好きな場所で見つける一冊一冊をすべて愛おしく感じる日々が今もなお続いている。
そんなこんなで紆余曲折あり、本への想いは小さくも大きくも何度も揺れ動いてきた。


ある日の通勤途中、いつものように本を読んでいたときに蘇ったあの頃の記憶。小学校に入学してすぐ好きな時間のひとつに書き加えられた読み聞かせの時間。地域で暮らすボランティアの方々が週に一度、おすすめの本や紙芝居を選んで学校に足を運んでくれた。物語の世界に入るスイッチは一本のマッチとアロマキャンドル。慣れた手つきで擦られたマッチから火が配られたキャンドルに灯るあかり。そのスイッチはさっきまで賑やかだった空気を一変する。静まり返った空気の中に響く声がわたしにもあの子にもすっと届く。同じ物語に飛び込んだはずなのに皆んなそれぞれ感じていることや考えていることは違う。現実の世界と変わらないはずなのに。それでも、物語の世界に入り込んだら現実の世界で喧嘩していようが気まずくなっていようが関係ないのだ。わたしはこの空間がとても好きだった。あかりが消されて花の香りが立ち込める。物語の世界から抜け出すのは一瞬だった。名残惜しいという気持ちも感じる隙すら与えない。夢から醒めた感覚に似ている。現実の世界に戻ると、口々に交わされる嘘偽りのない感情たち。良いも悪いもごちゃ混ぜで好きも嫌いも遠慮がなくて。


停留所に着く声で我に帰る。あの頃の思い出のカケラが心のどこかにすぽっとはまった気がした。だからだ、と思った。あかりを灯した時間が、空間が、大人になった今でも鮮明に思い出せるくらい大好きだった。だから嘘偽りのない感情たちが宙ぶらりんになって良い子のフリをした言葉を連ねた文字の羅列が堪らなく苦手なのだ。大人になるにつれて、試験や仕事の出来など、是非を問われる課題に直面することが多くなった。それを感情にまで求めるようになっていた。感情は一人ひとり違って良い。本の感想なら尚更だ。わたしは作品に対して是非をつけたり星をつけたりするのが苦手だけれど、つけても良い。誰かに媚び諂ったり自分の感情を見栄や虚勢で塗り重ねたりせずに、まっすぐな感情を共有できればそれで良い。わたしは本を読むタイミングで気持ちは簡単に変わると思っている。あのときに刺さらなかった言葉が今のわたしのど真ん中に刺さっていることがあるから。だから、一度読んだ本でも日を置いて読むことが何度もある。そして、その瞬間の感情を自分の言葉で伝えることが好きなんだと思う。良い子のフリをして綴った言葉たちも、先生の顔色を伺って大人のフリをして書き連ねた文言も、置き去りになった心を見て見ぬフリをしたわたしも、ちっとも好きになれなかったから。


大人になってから読書が好きと胸を張って言えるようになったのは、きっと今までの読書に対する波を自分で理解して言葉足らずながらも言語化して、自分の気持ちにちゃんと向き合えたことが大きいと思う。誰かに評価してもらいたいという考えが前面に出た偽りの文章じゃなくて、まっすぐな感情を自分が心地良いと感じる言葉にのせて書き記していきたい。そんな独りよがりかもしれない言葉や思いに誰かが共感してくれたらラッキーくらいの気持ちがわたしには丁度良い。何より本当に運が良いことに、今のわたしには本が好きな友人が周りにたくさんいる。そして嘘偽りない言葉で伝えても是か非かで判断する友人はいなくて、カラフルな感情をそのまま伝えてくれる友人しかいないので、想いを共有するのが本当に楽しくて仕方ない(大人になって自分にぴったりの言葉を選んで、組み合わせることができるようになったから尚更かもしれない)。


キャンドルが灯っていた時間に、あの頃のわたしたち一人ひとりが心の中や頭の中に描いていたようなまっすぐな想いや考えを、変わらずに大切にし続けられますように。




2024年は閏年。4年に1度しかこないこの日は《わたしを忘れないで》が花言葉の勿忘草が誕生花らしい。本を読むことが楽しいと、本が好きだと、感じたあの瞬間の記憶を、これから感じるであろう瞬間の想いを、これからも忘れずにいられますようにと願いを込めて。


2024.02.29

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